平成幹
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天仁2年(1109年)? |
別名 | 鹿島三郎、鹿島冠者、鹿島成幹、大掾成幹、吉田成幹 |
主君 | 源義光 |
氏族 | 桓武平氏国香流大掾氏(鹿島氏) |
父母 | 父:吉田清幹[1]、 |
兄弟 |
吉田盛幹[2]、行方忠幹[3]、成幹、 源義光室、源義業室 |
子 |
徳宿親幹[4]、神谷戸保幹、鹿島政幹、 林頼幹[5] |
略歴
[編集]吉田清幹の子として誕生。常陸国鹿島郡[6]鹿島郷を領し、鹿島城を居城として鹿島三郎と号し、鹿島冠者と『尊卑分脈』には記載された。鹿島郡の郡司であったとみられる[7]。大掾成幹あるいは吉田成幹とも呼ばれる。
『尊卑分脈』は源義忠暗殺事件の真犯人を義綱の弟の義光とし、実行犯を鹿島三郎(成幹と同名、同一人物か?)とする。それによると鹿島三郎は主君・義光から源義忠の暗殺指令を受け、義忠の郎党となる。同じ義光配下の藤原季方が源義明の刀を奪い、それを使って義忠の背後より斬りつけたという。しかし義忠は即死せず、反撃を受けて鹿島三郎も負傷した。義忠は出血が激しく、後に死亡した。鹿島三郎は主君・義光へ結果を報告した。負傷していた鹿島三郎に対し、義光は兄弟である園城寺の僧侶快誉宛の書状を持たせて養生するように伝え、園城寺に向かわせる。その書状には鹿島三郎の処断が指示されており、鹿島三郎は快誉によって口封じのために生き埋めにされて殺害されたとされる。だが、この事件自体は義家死後の河内源氏内部の対立があった影響とみられるが、義光の関与を含め真相は不明である[8]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 吉田次郎。
- ^ 吉田太郎。
- ^ 行方平四郎。
- ^ 徳宿氏の祖。
- ^ 林氏の祖。
- ^ 現茨城県鉾田市。
- ^ 清水亮「養和元年の常陸国鹿島社惣追捕使職補任に関する一考察」(初出:『関東地域史研究』2号(2000年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7)
- ^ 佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第45巻、山形県立米沢女子短期大学、2009年12月、19-29頁、CRID 1050001202927787264、ISSN 02880725。