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平岡資模

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平岡 資模(ひらおか すけのり、元禄11年(1698年) - 天明6年2月11日1786年3月10日))は、江戸時代の武士、旗本。通称は萬次郎、仁右衛門。平岡資明の二男。母は今井則次の娘。平岡資頻の養子となった。妻は芝山氏。子に平岡資英加藤正顕加藤政峯の養子)、娘に長井正興室。

生涯

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享保5年(1720年)家督を継ぎ、享保6年(1721年徳川吉宗に拝謁。享保7年(1722年新番となり、享保13年(1728年)日光参詣に供奉する。寛保2年(1742年金奉行になる。宝暦3年(1753年)8月西の丸納戸頭となり、同年12月布衣の着用を許された。宝暦9年(1759年)6月竹谷松平家松平義著への賜物の数が合わないという失態のため、同僚河野通純とともに拝謁をとどめられることになったが、同年7月許される。徳川家重薨去により宝暦11年(1761年寄合に入る。宝暦12年(1762年)西の丸納戸頭に復職。安永8年(1779年)二の丸留守居に移る。安永9年(1780年)老齢を理由に職を辞し、時服を3領賜る。天明6年(1786年)2月11日死去。享年89歳。

次に家督を継いだ孫の平岡資辰によって、資模らが編纂した『御九族記』が幕府に献上された(寛政2年(1790年))。

参考文献

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