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平伊望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平伊望
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 元慶5年(881年
死没 天慶2年11月16日(939年12月29日
官位 従三位大納言
主君 宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族 桓武平氏高棟
父母 父:平惟範、母:人康親王の娘
兄弟 時望伊望
統理、善理、実望
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平 伊望(たいら の これもち)は、平安時代前期の公卿桓武平氏高棟流、中納言平惟範の次男。官位従三位大納言

経歴

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寛平9年(897年醍醐天皇大嘗会に際して中宮藤原穏子の御給により従五位下叙爵し、昌泰3年(900年尾張権守任官する。中務少輔勘解由長官を務めた後、延喜16年(916年左衛門佐、延喜17年(917年左近衛権少将、延喜19年(919年)左近衛少将と、醍醐朝中期に弁官を歴任した兄・時望と対照的に、伊望は武官を歴任する。

延喜21年(921年)正月に兄の時望と同時に従四位下に叙せられると、3月には蔵人頭に任ぜられる。延長3年(925年)少将を辞して中宮権大夫に遷ると、没するまで15年近くの長きに亘って中宮・藤原穏子に仕えた。延長5年(927年参議に任ぜられ、兄の時望に先んじて公卿に列す。

議政官として、中宮(権)大夫のほか民部卿などを兼帯し、承平2年(932年正四位下に昇進した。承平4年(934年)には、3月に皇太后・藤原穏子の御賀により先任の参議であった源清蔭橘公頼を越えて正四位上に叙せられると、12月には従三位中納言に昇進している。承平6年(936年新国史編纂のために撰国史所が設置されると、藤原恒佐とともに別当に任ぜられる。

天慶元年(938年右大臣・藤原恒佐と大納言藤原扶幹が相次いで没し、時望は大臣に並ぶ藤原北家嫡流の藤原忠平仲平兄弟に次いで太政官の第三位の席次を占め大納言に昇る。天慶2年(939年)11月16日薨去享年59。最終官位は大納言従三位民部卿中宮大夫。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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  • 父:平惟範
  • 母:人康親王
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:平統理
    • 男子:平善理
    • 男子:平実望

脚注

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  1. ^ 『蔵人補任』
  2. ^ 或いは正月20日
  3. ^ 『日本紀略』

参考文献

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