平伊望
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元慶5年(881年) |
死没 | 天慶2年11月16日(939年12月29日) |
官位 | 従三位、大納言 |
主君 | 宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 桓武平氏高棟流 |
父母 | 父:平惟範、母:人康親王の娘 |
兄弟 | 時望、伊望 |
子 | 統理、善理、実望 |
平 伊望(たいら の これもち)は、平安時代前期の公卿。桓武平氏高棟流、中納言・平惟範の次男。官位は従三位・大納言。
経歴
[編集]寛平9年(897年)醍醐天皇の大嘗会に際して中宮・藤原穏子の御給により従五位下に叙爵し、昌泰3年(900年)尾張権守に任官する。中務少輔・勘解由長官を務めた後、延喜16年(916年)左衛門佐、延喜17年(917年)左近衛権少将、延喜19年(919年)左近衛少将と、醍醐朝中期に弁官を歴任した兄・時望と対照的に、伊望は武官を歴任する。
延喜21年(921年)正月に兄の時望と同時に従四位下に叙せられると、3月には蔵人頭に任ぜられる。延長3年(925年)少将を辞して中宮権大夫に遷ると、没するまで15年近くの長きに亘って中宮・藤原穏子に仕えた。延長5年(927年)参議に任ぜられ、兄の時望に先んじて公卿に列す。
議政官として、中宮(権)大夫のほか民部卿などを兼帯し、承平2年(932年)正四位下に昇進した。承平4年(934年)には、3月に皇太后・藤原穏子の御賀により先任の参議であった源清蔭・橘公頼を越えて正四位上に叙せられると、12月には従三位・中納言に昇進している。承平6年(936年)新国史編纂のために撰国史所が設置されると、藤原恒佐とともに別当に任ぜられる。
天慶元年(938年)右大臣・藤原恒佐と大納言・藤原扶幹が相次いで没し、時望は大臣に並ぶ藤原北家嫡流の藤原忠平・仲平兄弟に次いで太政官の第三位の席次を占め大納言に昇る。天慶2年(939年)11月16日薨去。享年59。最終官位は大納言従三位民部卿中宮大夫。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 寛平9年(897年) 正月20日:聴雑袍(下弾正宣旨)。11月23日:従五位下(中宮御給大嘗会、元宮殿上人)
- 昌泰3年(900年) 5月15日:尾張権守
- 延喜5年(905年) 4月5日:中務少輔
- 延喜9年(909年) 正月17日:従五位上
- 延喜11年(911年) 2月15日:兼勘解由長官
- 延喜13年(913年) 4月15日:兼右兵衛佐
- 延喜16年(916年) 3月20日:左衛門佐。9月23日:昇殿
- 延喜17年(917年) 5月20日:左近衛権少将。11月17日:正五位下(朔旦冬至)
- 延喜18年(918年) 正月12日:兼讃岐権介(使宣旨)
- 延喜19年(919年) 正月28日:左近衛少将
- 延喜21年(921年) 正月7日:従四位下。正月30日:兼春宮亮(春宮・保明親王)。2月7日:昇殿。3月8日:蔵人頭[1]
- 延喜22年(922年) 正月30日[2]:兼讃岐守
- 延長元年(923年) 3月21日:止春宮亮(保明親王薨)。6月26日:兼式部権大輔、少将如元
- 延長3年(925年) 正月30日:兼中宮権大夫(中宮・藤原穏子)、止少将
- 延長5年(927年) 正月12日:参議、中宮権大夫式部権大輔如元
- 延長6年(928年) 正月7日:従四位上。正月29日:兼越前権守。6月9日:兼式部大輔
- 延長8年(930年) 正月29日:兼備前守。日付不詳:兼中宮大夫
- 承平元年(931年) 11月28日:兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原穏子)
- 承平2年(932年) 正月7日:正四位下。8月30日:兼民部卿
- 承平3年(933年) 10月24日:兼伊予守
- 承平4年(934年) 3月28日:正四位上(皇太后御賀、越二人)。12月21日:中納言、従三位、民部卿皇太后宮大夫如元
- 承平6年(936年) 日付不詳:撰国史所別当
- 天慶元年(938年) 6月23日:大納言、民部卿中宮大夫如元
- 天慶2年(939年) 11月16日:薨去(大納言従三位民部卿中宮大夫)[3]
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年