平井卯輔
表示
平井 卯輔 | |
---|---|
生誕 |
1890年6月10日 日本 山口県 |
死没 | 1962年7月27日(72歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
平井 卯輔(ひらい うすけ、1890年(明治23年)6月10日[1] - 1962年(昭和37年)7月27日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1890年(明治23年)に山口県で生まれた[1]。陸軍士官学校第25期卒業[1]。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍騎兵大佐進級と同時に熊本連隊区司令官に着任[2]。1940年(昭和15年)8月に捜索第56連隊長(西部軍・第56師団)に転じ[2]、太平洋戦争に出征[1]。ビルマ侵攻に出動し、1942年(昭和17年)3月24日にラングーンに上陸[3]。連隊は先遣隊として3月30日にトングー、4月11日にパサウン、4月29日にはラシオを占領し[3]、5月4日にはバーモを無血占領する偉勲を立てた[4]。ラングーンから70日間で1700 kmの行程を駆け抜け、第15軍司令官より感状が授与された[4]。その後留守第56師団司令部附を経て[5]、1943年(昭和18年)12月に戦車第4旅団長(関東軍・第1方面軍・戦車第2師団)に転じた[1][2]。
1944年(昭和19年)3月1日に陸軍少将に進級し[2]、4月13日に第86師団司令部附となり[6]、5月10日に東京連隊区司令官に就任した[1]。1945年(昭和20年)3月31日に東京地区司令部附となり[7]、7月1日に東京師管区兵務部長に就任し[8]、終戦を迎えた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 福川 2001, 612頁.
- ^ a b c d 外山 1981, 342頁.
- ^ a b 新人物往来社戦史室 1994, 262頁.
- ^ a b 新人物往来社戦史室 1994, 263頁.
- ^ 「第235号 昭和18年12月28日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120899400
- ^ 「第70号 昭和19年4月15日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120907100
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 「第151号 昭和20年7月3日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120962300
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」22頁。
参考文献
[編集]- 新人物往来社戦史室 編『日本陸軍兵科連隊』新人物往来社、1994年。ISBN 4404021445。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。