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帝国議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
帝國議会から転送)
日本の旗 日本の議会
帝国議会ていこくぎかい

(帝󠄁國議會)
紋章もしくはロゴ
種類
種類
議院貴族院上院
衆議院下院
沿革
設立1890年明治23年)11月29日
廃止1947年昭和22年)5月3日
前身元老院[要出典]
後継国会
構成
定数貴族院:なし
衆議院:466(1928年)[3]
任期
貴族院:
終身(皇族議員侯爵華族議員勅選議員[1]
7年(男爵華族議員、勅選議員以外の勅任議員[2]
衆議院:
最長4年(解散あり)
選挙
非公選
自動(皇族議員、公侯爵華族議員)[4]
互選(伯子男爵華族議員)[2]
勅任(勅任議員)[4]
公選
小選挙区制(1890年 - 1898年、1920年 - 1924年)
中選挙区制(1928年 - 1942年)
大選挙区制(1902年 - 1917年、1946年)
議事堂
東京府東京市麹町区永田町国会議事堂
(昭和15年12月)[1]
憲法
帝国憲法[1]

帝国議会(ていこくぎかい、旧字体帝󠄁國議會英語: The Imperial Diet)は、1890年明治23年)の帝国憲法により設置された日本議会である[1]。公選の衆議院 (しゅうぎいん)(下院)と非公選の貴族院 (きぞくいん)(上院)から構成された[4]。「議会」もしくは「国会」と略称された[1]

1890年(明治23年)11月29日開会の第1回議会から、1947年(昭和22年)3月31日閉会の第92回議会まで行われた。同年5月3日の帝国憲法の失効及び日本国憲法の施行により、国会を立法府とし、下院には衆議院が維持され、上院には貴族院に代わって参議院が設置された。

沿革

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「衆議ニ依テ政治ヲ決スルヲ要スト云フノ思想ハ封建制度ノ末期ニ既ニ其ノ萌芽ヲ見タリ」(佐々木惣一『日本憲法要論』昭和五年)[5]。 幕末時代はヨーロッパ、アメリカでの産業革命以降、アジアの諸民族は西欧によって次々に植民地化され奴隷化され、ついに東洋の大帝国であった清国までイギリスに敗北し、日本国にも存亡の危機が迫っていた時代であった[6]嘉永6年(1853年)6月にペルリが浦賀に来航すると徳川幕府はそれまでの将軍専制の掟を破り朝廷に国際情勢の危機を奏聞するとともに、諸侯や一般の意見も徴した[7]。「幕府専断」から「尊皇公議」への転換であった[8]。公議公論にもとづいて天皇的統一国家を形成し[8]なければ他のアジア諸国のように分割され征服されるだろうという危機感があったのである[9]。 越前福井藩の横井小楠は幕府を廃止し、朝廷に公家と大名が参加する会議を開き、そこでの結論を「公論」と定め政策を行うことを提唱した[10]。幕臣の大久保一翁も大公議会、小公議会からなる議会構想をもち、この構想は松平慶永から西郷隆盛大久保利通らの知るところとなり、彼らからも支持された[11]津田真道は「上院」「下院」からなる議会設立を提案し、西周も上下院からなる「議政院」の設立を説いた[12]。 政治的闘争を経てついに将軍徳川慶喜政権を天皇に奉還し公議公論の新政を行うしかないと決断し、慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還の上奏文を朝廷に提出し、翌15日に勅許された[13]明治元年(1868年)には明治天皇は広く会議をおこして公論政治を断行する旨等の五箇条の御誓文を天地神明に誓ったが、これが明治維新の国是となった[14]。またこれに続き出された政体書には米国式の三権分立が早くも打ち出されていた[15]。 このように幕末期から唱えられた公議という言葉が政治参加の拡大を訴える正当性を持つ言葉として用いられ、広がることにより、アジア初の近代議会開設への歴史へと繋がっていくのであった[16]

明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て、明治天皇による詔勅国会開設の詔」が1881年(明治14年)10月12日に表明された。その8年後、1889年(明治22年)2月11日帝国憲法及び衆議院議員選挙法(明治22年2月11日法律3号)の公布を以て、翌年の1890年(明治23年)に上院である貴族院の互選・勅選と下院の代議士を公選する第1回衆議院議員総選挙(同年7月)が実施され、同年11月に貴族院と衆議院による二院制の第1回帝国議会が開会された。

初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府(内閣:行政府)と両院(帝国議会:立法府)の提携が行われるようになった。大正期に入ると大正デモクラシーの発展により衆議院の多数を占める政党が政権を担当し、第一党内閣の総辞職後には第二党に交代するという憲政の常道の慣例が生まれ[17]、衆議院が大きな力を持った[4]

1932年昭和7年)5月15日に起きた五・一五事件犬養内閣が倒れ斎藤内閣が成立して以降は軍部と政党が超党派的に支える挙国一致内閣の形態の内閣が増え政党政治が衰退し憲政の常道は終了した。[18]。特に、1940年(昭和15年)に全政党が解散して大政翼賛会が成立すると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの翼賛議会と化していった[注釈 1]

1947年(昭和22年)3月31日の第92回議会で衆議院は帝国議会として最後の解散をし、貴族院は停会された。そして、同年5月3日に明治憲法が失効し日本国憲法が施行され、下院である衆議院はそのまま維持されつつ、上院であった貴族院が廃止されるとともに参議院が新設され、両院制の帝国議会は国会に移行した。

評価

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かつては帝国議会は明治憲法によって権限が制限され、君主の権限が強化された「外見的立憲制」に過ぎず、軍部の台頭を許し、戦争を防げなかったとして、研究者からも低い評価がなされていた。しかし、近年では明治国家の制度設計者たちが議会の役割を重視していたことを踏まえ、民主主義自由主義の実現を目指した幕末の公議から自由民権運動を経ての政治運動の帰結であったという評価もなされている[19]

構成等

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衆議院貴族院二院制[20]

衆議院は選挙により代表を選出した。議会開設当初より1925年(大正14)年の普通選挙法制定までは納税額による制限選挙、以後は普通選挙であった(ただし戦前は一貫して男子のみ)[21]

貴族院は皇族男子(親王及び)、華族議員[注釈 2]、勅選議員[注釈 3]、多額納税者[注釈 4]、帝国学士院選出議員[注釈 5]並びに朝鮮及び台湾在住者議員[注釈 6]で構成され、解散はなかった。ただし、皇族が議会に出席したことはなかった[22]

議院相互の関係などは、議院法によって規律された。両院は、衆議院の予算先議権を除き、対等の権限を有する[注釈 7]

貴族院と衆議院を併せて、「貴衆両院」、「貴衆二院」と略称され、議会では国民から選出された議員を「代議士」、両院を以て議決することから帝国議会制度は「代議制度」とも称された。

帝国議会の常会(通常会)は毎年12月に召集され、会期は3ヶ月であったが、勅命によって延長されることもあった[23]。議会の召集、開会、閉会、停会衆議院解散天皇大権に属した[24]。召集は各議員に対して一定の期日に特定の場所に集会を命じる行為であるが、勅命によってのみなされる。帝国議会はみずから集会する権、または召集を請求する権を有しない。帝国議会は毎年1回召集する[25]のを常則とされ、これを通常会といい、毎年11月、または12月、東京に召集される。他に、臨時会が召集することがある[26]。開会は、議会が召集され、議長、副議長および議員の部属が定り、両議院が成立した後に詔書で期日を定めてなされる。閉会は、会期が終了し、したがって議会の職務行為が終了したことを公に宣示する行為であり、閉会するという勅語が出される(詔書による公布はない)。議会の開閉は、両院に対して同時に行われる[27]。議会の停会は会期中、一時、議会の職務行動の停止を命じる行為で、15日以内、一定の期間を定め、詔書で命じる。衆議院が解散されると、貴族院も停会扱いとされ[27]、「解散から5ヶ月以内に衆議院選挙を行って新議会を召集しなければならない」とされていた[28]。議会の休会は各議院がその会議を休止することで、会期中、休会するのは各院の随意であった。

「(公選の)衆議院では成立当初から、乱闘騒ぎがしばしば起きていた」のに対し、「(非公選の)貴族院では、ほとんどなかった」とされている。

権限

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帝国議会は立法・予算に協賛し、行政を監督することを主たる権能とした[1]。形式的に立法権は天皇にあったが、議会の協賛がなければ天皇は立法権を行使できなかった[1]。ただし法律以外の命令勅令省令)は議会の協賛無しでも政府が出すことができた[1]。また議会は立法のみではなく、国民の代わりに政府の施政を監視し、批評議論して政府の責任を明らかにする権限があった[1]

憲法、または法律の定める方式に従って、実質上、いっさいの国務に参与する。議会の職務権限は、1 協賛権および承諾権(後述)、2 その他の形式的権限、a 上奏権、b 建議権、c 請願受理の権、d 決議権、e 国務審査の権、f 質問権(後述)、g 政府の報告を受ける権、h 天皇の諮詢に応える権、i 議員の逮捕を許諾する権(53条)、4 その他、議院内部の事項に関して規則を定め、これを処置する権(51条)。

協賛権

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帝国議会の協賛権は、国家の行為についてその行為が行なわれる前にあらかじめ同意を与えてその行為を有効、または適法ならしめる権である。 1 立法に関する協賛(5条)、a 憲法改正の協賛(憲法には「議決」と規定)、b 法律の協賛、c 貴族院令に対する貴族院の協賛。これらはかならず協賛を得て、そうでない場合は無効である。2 行政に関する協賛、a 国家の歳入歳出予算(64条)、b 国債を起すこと(62条)、c 予算外国庫の負担となるべき契約をなすこと(62条)。これらの場合は協賛は有効条件ではなくて適法要件である。

承諾権

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帝国議会の承諾権は、議会の協賛を要する行為について、その協賛を経る時間がないままに政府がなした国家行為に対して、事後、これに同意を与える権である。1 立法に関するものは緊急勅令(8条)で、その承諾が無いときは将来その効力を失う。2 行政に関するものは、a 予算超過支出および予算外支出(64条)、b 財政上の必要な処分をなす勅令(70条)で、承諾の無いときはすでに発生した効力は変化しないが、上述 a は将来にむかってその効力を失い、上述 b は国務大臣が帝国議会に対して違法の責に任ずるのみである。

質問権

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帝国議会において、両議院の議員は、30人以上の賛成を得て国務大臣の責任に属する事項について国務大臣に質問をする権がある(議院法49条、50条)。これに対して大臣は答弁をなすか、またはそれを拒否する理由を明示する。この正式の質問に対して、質疑がある。質疑は、現に議題となっている事項に関して口頭でなされる質問で、各議員単独に国務大臣以外にも政府委員、議長、または発案者に対してもおこなうことができる。質疑は、ふつう質問と言われるもので、正式の質問よりも重大なものであるとされ、帝国議会が政府の行為を批評し、論議する最も有力な手段であるとされた。

特徴

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帝国議会は、日本国憲法下の国会と比較すると、政府が提出する法律案に対する立法協賛権(明治憲法5条、37条)及び予算案に対する予算協賛権(64条)、政府に対する建議権(40条)、天皇に対する上奏権(49条)、議会に持ち込まれた請願を審議する権限(50条)が与えられていた。また、天皇による法律裁可権に基づく裁可を経るという条件付きながら法律提案権(38条)も有していた[注釈 8]

(議決を経なければ、法律は成立しないものの)「帝国議会は、天皇の立法権行使に対する協賛機関」という位置付けであった点に、一番の相違点があり[注釈 9]、「立法権は国王と議会が共に持ち、行使する」という近現代の欧州立憲君主国における位置づけとはやや異なる。

しかし両者ともに、絶対王政下のような拒否権は有せず、天皇自ら法案を作成したわけでも、帝国議会の議決を裁可しなかったわけでもなかったため、事実上の近代的立憲君主国であったことは断言できるとされる。

また、明治憲法下では法律事項とされる事項であっても、法律に反しない限りは帝国議会の関与を要せず、勅令を以て独立命令を制定でき(「立法」の対象が狭く考えられていた[注釈 10])、皇室経費は議会の協賛の対象外とされ(憲法66条)、その他の天皇大権に関わる予算も政府が同意しない限りにおいては、削減・廃除ができないとされるなど、政治に関する他の大半の権限が議会の統制を受けず、議会の権限は弱小であった。したがって、帝国議会の議決は国家の最高意思ではなく、帝国議会の権限外にあった。

予算案に関しては否決ができず、修正のみ可能であった。しかも、予算の編成権は政府のみが有しており議会にはなかったため、修正も予算金額の削減のみであった[29][30]

ただし、追加予算案は否決できた[29][30]。緊急時には委員会の審議を省略し本会議にかけることが可能であったため、大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍への歳出である軍事費や皇室関係費などの追加予算の際には、しばしば省略された[注釈 11][31]

予算議定権は、憲法64条に規定された、帝国議会が政府提出の予算に協賛する権であるが、その範囲は、皇室経費(66条)、継続費(68条)、歳入予算などに関して制限があった。

1.歳出予算については、その原案に対して廃除削減を行い得るのみであった。

2.政府の原案については、a 憲法上の大権に基づく既定の歳出、b 法律の結果による歳出、c 法律上、政府の義務に属する歳出の修正には政府の同意を要する(67条)。

予算の協賛権の効果はあらかじめ同意を与え、大臣の責任を解除する。帝国議会が予算を議定せず、または予算が不成立のときは、政府は前年度の予算を施行する(71条)。

予算については衆議院が先議権を有する(65条)。

日本国憲法下の国会では委員会制が採られているが、帝国議会では三読会制が採られていて、本会議中心であった。委員会の種類としては、全院委員会、常任委員会及び特別委員会、そして、継続委員が置かれていた。全院委員は全ての議員が委員となり、実際上、本会議と異ならず、ただし、議長および議事規則は異なった。常任委員は、貴族院には、資格審査委員、予算委員、懲罰委員、請願委員および決算委員があった。衆議院には資格審査委員を除く4つがあった。特別委員は一件の事件が審査されるために特設され、継続委員は、議会の閉会中、議案の審査を継続するために設置された。

帝国議会の会期一覧

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帝国議会は下記の通り開催された[32]

回次 召集日・開院式 会期終了日 種類 備考
01回帝国議会 1890年(明治23年)11月29日 1891年(明治24年)03月07日 通常会
02回帝国議会 1891年(明治24年)11月26日 1891年(明治24年)12月25日 通常会 蛮勇演説
1891年(明治24年)12月25日解散。
03回帝国議会 1892年(明治25年)05月06日 1892年(明治25年)06月14日 特別会
04回帝国議会 1892年(明治25年)11月29日 1893年(明治26年)02月28日 通常会
05回帝国議会 1893年(明治26年)11月28日 1893年(明治26年)12月30日 通常会 1893年(明治26年)12月30日解散。
06回帝国議会 1894年(明治27年)05月15日 1894年(明治27年)06月02日 特別会 1894年(明治27年)06月02日解散。
07回帝国議会 1894年(明治27年)10月18日 1894年(明治27年)10月21日 臨時会 日清戦争により大本営が臨時に設置されていた広島県広島市で召集・開催。
08回帝国議会 1894年(明治27年)12月24日 1894年(明治28年)03月23日 通常会
09回帝国議会 1895年(明治28年)12月28日 1896年(明治29年)03月28日 通常会
第10回帝国議会 1896年(明治29年)12月25日 1897年(明治30年)03月24日 通常会
第11回帝国議会 1897年(明治30年)12月24日 1897年(明治30年)12月25日 通常会 1897年(明治30年)12月25日解散。
第12回帝国議会 1898年(明治31年)05月19日 1898年(明治31年)06月10日 特別会 1898年(明治31年)06月10日解散。
第13回帝国議会 1898年(明治31年)12月03日 1899年(明治32年)03月09日 特別会

通常会
第14回帝国議会 1899年(明治32年)11月22日 1900年(明治33年)02月23日 通常会
第15回帝国議会 1900年(明治33年)12月25日 1901年(明治34年)03月24日 通常会
第16回帝国議会 1901年(明治34年)12月10日 1902年(明治35年)03月09日 通常会
第17回帝国議会 1902年(明治35年)12月09日 1902年(明治35年)12月28日 通常会 1902年(明治35年)12月28日解散。
第18回帝国議会 1903年(明治36年)05月12日 1903年(明治36年)06月04日 特別会
第19回帝国議会 1903年(明治36年)12月10日 1903年(明治36年)12月11日 通常会 1903年(明治36年)12月11日解散。
第20回帝国議会 1904年(明治37年)03月20日 1904年(明治37年)03月29日 臨時会
第21回帝国議会 1904年(明治37年)11月30日 1905年(明治38年)02月27日 通常会
第22回帝国議会 1905年(明治38年)12月28日 1906年(明治39年)03月27日 通常会
第23回帝国議会 1906年(明治39年)12月28日 1907年(明治40年)03月27日 通常会
第24回帝国議会 1907年(明治40年)12月28日 1908年(明治41年)03月26日 通常会
第25回帝国議会 1908年(明治41年)12月25日 1909年(明治42年)03月24日 通常会
第26回帝国議会 1909年(明治42年)12月24日 1910年(明治43年)03月23日 通常会
第27回帝国議会 1910年(明治43年)12月23日 1911年(明治44年)03月22日 通常会
第28回帝国議会 1911年(明治44年)12月27日 1912年(明治45年)03月25日 通常会
第29回帝国議会 1912年(大正元年)08月23日 1912年(大正元年)08月25日 臨時会 8月24日、明治天皇大喪費追加予算案可決。
第30回帝国議会 1912年(大正元年)12月27日 1913年(大正02年)03月26日 通常会 第一次護憲運動
第31回帝国議会 1913年(大正02年)12月26日 1914年(大正03年)03月25日 通常会 シーメンス事件
第32回帝国議会 1914年(大正03年)05月05日 1914年(大正03年)05月07日 臨時会
第33回帝国議会 1914年(大正03年)06月22日 1914年(大正03年)06月28日 臨時会
第34回帝国議会 1914年(大正03年)09月04日 1914年(大正03年)09月09日 臨時会
第35回帝国議会 1914年(大正03年)12月07日 1914年(大正03年)12月25日 通常会 1914年(大正3年)12月25日解散。
第36回帝国議会 1915年(大正04年)05月20日 1915年(大正04年)06月09日 特別会
第37回帝国議会 1915年(大正04年)12月01日 1916年(大正05年)02月28日 通常会
第38回帝国議会 1916年(大正05年)12月27日 1917年(大正06年)01月25日 通常会 1917年(大正6年)01月25日解散。
第39回帝国議会 1917年(大正06年)06月23日 1917年(大正06年)07月14日 特別会
第40回帝国議会 1917年(大正06年)12月27日 1918年(大正07年)03月26日 通常会
第41回帝国議会 1918年(大正07年)12月27日 1919年(大正08年)03月26日 通常会
第42回帝国議会 1919年(大正08年)12月26日 1920年(大正09年)02月26日 通常会 1920年(大正9年)02月26日解散。
第43回帝国議会 1920年(大正09年)07月01日 1920年(大正09年)07月28日 特別会
第44回帝国議会 1920年(大正09年)12月27日 1921年(大正10年)03月26日 通常会
第45回帝国議会 1921年(大正10年)12月26日 1922年(大正11年)03月25日 通常会
第46回帝国議会 1922年(大正11年)12月27日 1923年(大正12年)03月26日 通常会
第47回帝国議会 1923年(大正12年)12月11日 - 1923年(大正12年)12月23日 臨時会
第48回帝国議会 1923年(大正12年)12月27日 1924年(大正13年)01月31日 通常会 第二次護憲運動
1924年(大正13年)01月31日解散。
第49回帝国議会 1924年(大正13年)06月28日 1924年(大正13年)07月18日 特別会
第50回帝国議会 1924年(大正13年)12月26日 1925年(大正14年)03月30日 通常会 普通選挙法治安維持法
第51回帝国議会 1925年(大正14年)12月26日 1926年(大正15年)03月25日 通常会
第52回帝国議会 1926年(昭和元年)12月26日 1927年(昭和02年)03月25日 通常会
第53回帝国議会 1927年(昭和02年)05月04日 1927年(昭和02年)05月08日 臨時会
第54回帝国議会 1927年(昭和02年)12月26日 1928年(昭和03年)01月21日 通常会 1928年(昭和03年)01月21日解散。
第55回帝国議会 1928年(昭和03年)04月23日 1928年(昭和03年)05月06日 特別会 (25歳以上の男子)普通選挙後の初議会。
第56回帝国議会 1928年(昭和03年)12月26日 1929年(昭和04年)03月25日 通常会
第57回帝国議会 1929年(昭和04年)12月26日 1930年(昭和05年)01月21日 通常会 1930年(昭和05年)01月21日解散。
第58回帝国議会 1930年(昭和05年)04月23日 1930年(昭和05年)05月13日 特別会
第59回帝国議会 1930年(昭和05年)12月26日 1931年(昭和06年)03月27日 通常会
第60回帝国議会 1931年(昭和06年)12月26日 1932年(昭和07年)01月21日 通常会 1932年(昭和07年)01月21日解散。
第61回帝国議会 1932年(昭和07年)03月20日 - 1932年(昭和07年)03月24日 臨時会
第62回帝国議会 1932年(昭和07年)06月01日 1932年(昭和07年)06月14日 臨時会
第63回帝国議会 1932年(昭和07年)08月23日 1932年(昭和07年)09月04日 臨時会 いわゆる時局匡救議会。
第64回帝国議会 1932年(昭和07年)12月26日 1933年(昭和08年)03月25日 通常会
第65回帝国議会 1933年(昭和08年)12月26日 1934年(昭和09年)03月25日 通常会
第66回帝国議会 1934年(昭和09年)11月28日 1934年(昭和09年)12月10日 臨時会
第67回帝国議会 1934年(昭和09年)12月26日 1935年(昭和10年)03月25日 通常会 天皇機関説事件
第68回帝国議会 1935年(昭和10年)12月26日 1936年(昭和11年)01月21日 通常会 1936年(昭和11年)01月21日解散。
第69回帝国議会 1936年(昭和11年)05月04日 1936年(昭和11年)05月26日 特別会 粛軍演説
第70回帝国議会 1936年(昭和11年)12月26日 1937年(昭和12年)03月31日 通常会 腹切り問答
1937年(昭和12年)03月31日解散。
第71回帝国議会 1937年(昭和12年)07月25日 1937年(昭和12年)08月07日 特別会
第72回帝国議会 1937年(昭和12年)09月04日 1937年(昭和12年)09月08日 臨時会
第73回帝国議会 1937年(昭和12年)12月26日 1938年(昭和13年)03月26日 通常会 「黙れ」事件
第74回帝国議会 1938年(昭和13年)12月26日 1939年(昭和14年)03月25日 通常会
第75回帝国議会 1939年(昭和14年)12月26日 1940年(昭和15年)03月26日 通常会 反軍演説
第76回帝国議会 1940年(昭和15年)12月26日 1941年(昭和16年)03月25日 通常会
第77回帝国議会 1941年(昭和16年)11月16日 1941年(昭和16年)11月20日 臨時会
第78回帝国議会 1941年(昭和16年)12月16日 1941年(昭和16年)12月17日 臨時会
第79回帝国議会 1941年(昭和16年)12月26日 1942年(昭和17年)03月25日 通常会
第80回帝国議会 1942年(昭和17年)05月27日 1942年(昭和17年)05月28日 臨時会
第81回帝国議会 1942年(昭和17年)12月26日 - 1943年(昭和18年)03月25日 通常会
第82回帝国議会 1943年(昭和18年)06月16日 1943年(昭和18年)06月18日 臨時会
第83回帝国議会 1943年(昭和18年)10月26日 1943年(昭和18年)10月28日 臨時会
第84回帝国議会 1943年(昭和18年)12月26日 1944年(昭和19年)03月24日 通常会
第85回帝国議会 1944年(昭和19年)09月07日 1944年(昭和19年)09月11日 臨時会
第86回帝国議会 1944年(昭和19年)12月26日 1945年(昭和20年)03月25日 通常会
第87回帝国議会 1945年(昭和20年)06月09日 1945年(昭和20年)06月12日 臨時会 義勇兵役法天罰発言事件
第88回帝国議会 1945年(昭和20年)09月04日 1945年(昭和20年)09月05日 臨時会
第89回帝国議会 1945年(昭和20年)11月27日 1945年(昭和20年)12月18日 臨時会 1945年(昭和20年)12月18日解散。
第90回帝国議会 1946年(昭和21年)06月20日 1946年(昭和21年)10月11日 臨時会 (20歳以上の男女普通選挙)
女性参政権制定後の初議会。
第22回衆議院議員総選挙に当選した
39名の女性衆議院議員が参加。
日本国憲法大日本帝国憲法改正案)審議。
第91回帝国議会 1946年(昭和21年)11月26日 1946年(昭和21年)12月25日 臨時会
第92回帝国議会 1946年(昭和21年)12月28日 1947年(昭和22年)03月31日 通常会 最後の帝国議会。
1947年(昭和22年)03月31日解散。
同年5月6日詔書公布、5月20日召集、
6月23日開会式の「第1回国会(特別会)」に継承される。

議事録

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帝国議会本会議では第1回から速記録の「衆議院議事速記録」と「貴族院議事速記録」、要領筆記の「衆議院議事録」と「貴族院議事録」が作成された[33]。公式記録は議長が署名を行う議事録とされ速記録に優先して扱われたが、議事録は議院の内部資料とされ頒布されることはなかった[33]。第1号帝国議会議事速記録は明治23年12月3日官報の付録として発行されている[33]

委員会でも速記録と議事録が作成されたが両院で扱いが異なっていた[33]。衆議院では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、本会議と同じく速記録と議事録が作成されていたが、第15回帝国議会で速記録に一本化されこれを「衆議院委員会議録」とした[33]。貴族院では委員会の会議録として本会議と同じく「貴族院委員会議事速記録」と「貴族院委員会議事録」が作成された[33]

脚注

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注釈

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  1. ^ もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせなければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮するなどの一定の譲歩がなされはしたが、それがために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。
  2. ^ ただし、伯爵以下の議員については7年に1度互選が行われて、その代表が議員となることになっていた。
  3. ^ 満30歳以上の男子で、貴族院令第1条で「国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者ヨリ特ニ勅任セラレタル者」から定員は125名以内で、勅選された。終身議員。
  4. ^ 満30歳以上の男子で、直接国税納税額の多い者を任期は7年で互選。
  5. ^ 貴族院令の第4次改正(第50回帝国議会)で設けられた。帝国学士院の会員で満30歳以上の男子の中から4名を、互選で選出する。任期は7年である。
  6. ^ 貴族院令の第5次改正(第86回帝国議会)で朝鮮及び台湾住民の政治的処遇を改善するため、朝鮮及び台湾に在住する満30歳以上の男子で名望あるもの10人以内を勅選で、任期は7年。敗戦に伴い、第6次改正(第90回帝国議会) で廃止された。
  7. ^ 1891年(明治24)2月20日、天野若円(大成会)が提出した、「衆議院が大日本帝国憲法第67条関連の予算削減を審議する際には、事前に政府の了解を得る」という決議が衆議院で可決され、政府もこれを了承した。これは一見、帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにもみえるが、裏を返せば、予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院がさらに修正を加える余地を奪うもので、衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を、議会慣習の形で事実上確立したものであった。
  8. ^ 議会で成立した議員提案の法律案が天皇の裁可を得られずに成立しなかった例はない。
  9. ^ 5条により、「立法権は天皇にあり、帝国議会は協賛機関に過ぎない」とみるか、「帝国憲法37条により立法に協賛を『要ス』点に着目して、実質的立法機関であった」と見るかで、帝国議会への評価は異なる。前者は翼賛政治体制時に象徴的にみられ、後者は大正デモクラシー期に最も強く現れた。
  10. ^ ただし、緊急勅令は議会の次の会期に承諾を得なければ将来に向かって効力を消失し、非常大権は帝国憲法下では一度も発動されなかった。
  11. ^ 予算の審議は衆議院の先議(65条)であったが決算は政府から両院に提出され、各院は別々に決議し、決議したものは他の院に送付されない。よって、両院の決議が異なることがあった。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 百瀬孝 1990, p. 36.
  2. ^ a b 百瀬孝 1990, p. 38.
  3. ^ 百瀬孝 1990, p. 40.
  4. ^ a b c d 百瀬孝 1990, p. 37.
  5. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 16.
  6. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 18‐22.
  7. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 23‐25.
  8. ^ a b 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 30.
  9. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 27.
  10. ^ 久保田哲 2018, p. 10.
  11. ^ 久保田哲 2018, p. 12.
  12. ^ 久保田哲 2018, p. 18‐19.
  13. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 33‐36.
  14. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 37‐44.
  15. ^ 大日本帝国憲法制定史調査会 1980, p. 44‐45.
  16. ^ 久保田哲 2018, p. 37‐38.
  17. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『憲政の常道』 - コトバンク
  18. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『挙国一致内閣』 - コトバンク
  19. ^ 久保田哲 2018, p. 239‐240.
  20. ^ 帝国議会(テイコクギカイ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年11月3日閲覧。 “明治憲法下における、貴族院と衆議院とからなる立法機関。”
  21. ^ 宇野俊一. “帝国議会(テイコクギカイ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年11月3日閲覧。 “衆議院は,当初直接国税15円以上を納付する満25歳以上の男子を有権者とする制限選挙で,それ以後,衆議院議員選挙法を2度改正して選挙資格が緩和され,1925年に男子のみの普通選挙制に移行した。”
  22. ^ 貴族院と日記――明治期を中心に|日記で読む政治史”. 国立国会図書館憲政資料室 日記の世界. 国立国会図書館憲政資料室. 2024年7月27日閲覧。 “皇族議員は、成年皇族男子の全員(ただし、法案等を審議する議場に出席しない慣例)”
  23. ^ 帝国議会|アジ歴グロッサリー”. www.jacar.go.jp. 2024年11月3日閲覧。
  24. ^ 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年11月3日閲覧。 “第7条天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス”
  25. ^ 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年11月3日閲覧。 “第41条帝国議会ハ毎年之ヲ召集ス”
  26. ^ 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年11月3日閲覧。 “第43条臨時緊急ノ必要アル場合ニ於テ常会ノ外臨時会ヲ召集スヘシ 2 臨時会ノ会期ヲ定ムルハ勅命ニ依ル”
  27. ^ a b 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年11月3日閲覧。 “第44条帝国議会ノ開会閉会会期ノ延長及停会ハ両院同時ニ之ヲ行フヘシ 2 衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ貴族院ハ同時ニ停会セラルヘシ”
  28. ^ 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 2024年11月3日閲覧。 “第45条衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ勅令ヲ以テ新ニ議員ヲ選挙セシメ解散ノ日ヨリ五箇月以内ニ之ヲ召集スヘシ”
  29. ^ a b 帝国議会の運営と会議録をめぐって | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年11月3日閲覧。
  30. ^ a b 大山英久. “帝国議会の運営と会議録をめぐって”. 国立国会図書館. p. 40. 2024年11月3日閲覧。 “予算案に関しては否決ができず、 修正のみ可能であった。 しかも予算の編成権は政府のみが有していて議会にはなかったため、 修正も予算金額の削減だけであった。 ただし、 追加予算案は否決できた。”
  31. ^ 「帝国議会の運営と会議録をめぐって」大山英久(国立国会図書館調査及び立法考査局調査企画課No.652)2005年(平成17)5月[1]PDF-P.9
  32. ^ 大山英久「帝国議会の運営と会議録をめぐって」[2](『レファレンス』 No.652、2005年5月、国立国会図書館)
  33. ^ a b c d e f 石倉賢一, 「国会会議録について」『大学図書館研究』 1984年 25巻 p.39-44, doi:10.20722/jcul.769、2021年5月19日閲覧。

文献情報

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  • 「帝国議会の運営と会議録をめぐって」大山英久(国立国会図書館調査及び立法考査局調査企画課No.652(2005年5月))[3]
  • 百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本…制度と実態』伊藤隆監修(初版)、吉川弘文館、1990年。ISBN 9784642036191 
  • 大日本帝国憲法制定史調査会『大日本帝国憲法制定史』サンケイ新聞社〈サンケイ出版〉、1980年3月15日。 
  • 久保田哲『帝国議会』中央公論新社〈中公新書〉、2018年6月25日。 

関連項目

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外部リンク

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