市川伊雄
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市川 伊雄(いちかわ いゆう、1903年(明治36年)12月 - 1967年(昭和42年)8月)は、曹洞宗の僧侶で、海門山興禅寺の開基である。
人物
[編集]1903年(明治36年)12月、山梨県曹洞宗光善寺に生まれた。幼少の頃、神奈川県本覚寺禅堂で勉学に励み、日本大学仏教科を卒業し、仏道修行に励んだ。1935年(昭和10年)、海門山興禅寺を開創した。大本山總持寺地方副監院審事院審事、贈監院、権大教師等や横浜地方裁判所各種調停委員等の公職を歴任した。
顕彰碑
[編集]横浜市道に面した寺の北側に「市川伊雄大和尚顕彰碑」が立つ。石碑は、和尚の履歴を述べた後、東條英機らA級戦犯7名の遺骨に関する和尚の功績について、次のような添え書きがある。
猪瀬直樹著『日本人はなぜ戦争をしたか』
[編集]「東京裁判で小磯國昭被告の日本側弁護人であった三文字正平弁護士は、なんとか遺骨を回収しようとねらっていた。たまたま久保山火葬場のすぐ上に興禅寺という寺があり、その住職市川伊雄と面識があったからその旨を伝えた。市川住職は飛田火葬場長と懇意であった。三文字弁護士は処刑の夜、興禅寺に待機していた。興禅寺下方の火葬場を観察していると、ホロ付きトラックが到着した。午前七時半である。カービン銃を手にした米兵が火葬場を取り囲んだので事態はすぐに了解できた。・・・・・・火葬には飛田場長と磯崎火夫があたった。・・・・・・遺灰は米軍が持ち去ってしまう。彼らがもっとも恐れていたのは、七人が殉教者になることだった。遺灰は飛行機で空から撒くことになっていた。米軍が持ち去る前、遺灰はいったん行路病者などの遺骨を入れる無縁の骨捨て場に置かれていた。12月26日の深夜、飛田場長と市川住職は、ハダシでそこに近づく。御影石のフタをとって穴をのぞくと、七人分の真新しい遺灰がひと山にまとめられ青白く光って浮かんで見えた。火かき棒であわてて、一部を収納した。」 — 猪瀬直樹、日本人はなぜ戦争をしたか[1]
伊丹妙浄講述『興亜観音とわたくし』
[編集]城山三郎著『落日燃ゆ』
[編集]城山三郎の広田弘毅を主人公とした『落日燃ゆ』の冒頭では、次のように記述されている。
「昭和23年(1948年)12月24日の昼下がり、横浜市西区のはずれに在る久保山火葬場では、数人の男たちが人目をはばかるようにしながら、その一隅の共同骨捨場を掘り起し、上にたまっている新しい骨灰を拾い集めていた。当時、占領下であり、男たちがおそれていたのは、アメリカ軍の目であったが、この日はクリスマス・イブ。それをねらい、火葬場長と組んでの遺骨集めであった。やがて一升ほどの白っぽい骨灰を集めると、壺につめて、男たちは姿を消した。骨壺は男たちによって熱海まで運ばれ、伊豆山山腹に在る興亜観音に隠された。・・・・・・七つの遺骸は、その前日、十二月二十三日の午前二時五分、二台のホロつき大型軍用トラックに積まれて巣鴨を出、二台のジープに前後を護衛され、久保山火葬場へ着いたもので、二十三日朝八時から、アメリカ軍将校監視の下に、荼毘に付された。遺族はだれも立ち会いを許されなかった。それどころか、遺骨引き取りも許可されなかった。」 — 城山三郎、落日燃ゆ[3]
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 南区の歴史発刊実行委員会 編『南区の歴史』南区の歴史発刊実行委員会、1986年3月15日。
- 城山三郎『落日燃ゆ』講談社文庫、1986年11月25日。ISBN 978-4-10-113318-8。
- 猪瀬直樹『日本人はなぜ戦争をしたか』小学館、2002年8月1日。ISBN 4-09-394238-2。
- 伊丹妙浄講述『興亜観音とわたくし』2011年6月20日。