巨勢至忠
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保12年(1727年) |
死没 | 安永7年12月19日(1779年2月5日) |
改名 | 利信(初名)→至忠 |
別名 | 通称:新蔵、六左衛門 |
戒名 | 超道[1] |
官位 | 従五位下・伊豆守、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
氏族 | 土岐氏→巨勢氏 |
父母 |
父:土岐朝澄、母:江原全玄娘 養父:巨勢至信 |
妻 |
正室:巨勢至信次女 継室:毛利高慶娘[1] |
子 |
利貞 養子:至健、至方、至親、巨勢至親室[1] |
巨勢 至忠(こせ ゆきただ)は、江戸時代中期の旗本。土岐朝澄の子。巨勢至信の婿養子。官位は従五位下・伊豆守、日向守。
生涯
[編集]延享2年(1745年)、初めて徳川吉宗に御目見し、宝暦元年(1751年)に旗本寄合席に列した[1]。宝暦3年(1753年)に定火消となり、布衣の着用を許された[1]。宝暦9年(1759年)、江戸城西城に勤めて小姓組番頭に昇進し、従五位日向守に叙せられた[1]。宝暦11年(1759年)に江戸本城勤務となり、御書院番の番頭となった[1]。明和3年(1766年)、御側に昇進し、安永5年(1776年)には徳川家治の日光山行幸にも付き添っている[1]。
安永7年(1778年)12月16日、病を得て役職を退こうとしたものの許されず、心を落ち着けて療養すべしと、命令を受けた[1]。3日後の12月19日に死去、享年52[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考
[編集]- 「寛政重脩諸家譜. 第8輯」(1923年)