左鼎
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左鼎(さ てい、1409年 - 1458年)は、明代の官僚。字は周器、号は立斎。本貫は吉安府永新県。
生涯
[編集]1442年(正統7年)、進士に及第した。1443年(正統8年)、南京監察御史に任じられた[1]。ほどなく北京監察御史に転じ、巡按山西をつとめた。
1449年(正統14年)、土木の変で英宗がオイラトに連行されると、左鼎は太原諸府の税糧を免除し、大同の軍糧輸送の夫役を停止するよう請願した。エセン・ハーンが請和を申し出ると、左鼎はこれを受けてはいけないと主張した。ほどなく山東・河南で飢饉が起こると、左鼎は巡視に派遣された。
1453年(景泰4年)3月、左鼎は軍政を修め、成憲を遵守し、官の冗員を省くよう求める四事の上疏をおこなった。4月、同僚とともに救弊恤民の七事を言上した[2]。左鼎は官にあっては清廉勤勉で知られ、御史の練綱と併称されて、「左鼎の手、練綱の口」といわれた。のちに広東右参政として出向した。
1457年(天順元年)、英宗が復位すると、郭登の進言により、左鼎は北京に召還されて左僉都御史となった。1458年(天順2年)1月、死去した[3]。著書に『立斎集』[4]があった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻164 列伝第52