川崎鑰之助
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川崎 鑰之助(かわさき かぎのすけ、生没年不詳)は、日本の戦国時代の兵法家。東軍流剣術を開いたとされる。名は時盛。また幸盛、清貞とも。通称、賀義助。
経歴
[編集]越前国朝倉氏の御用人、川崎時定(新九郎)の子で、父時定は鞍馬八流の達人だったという。鑰之助は13歳のころから父に学び、さらに槍術を富田午生に、剣術を富田勢源に学んだ。17歳で、真柄真基(十郎三郎)、村上長孝(庄蔵)とともに朝倉の「鬼若三勇士」とうたわれたというが、『日本剣豪100選』の綿谷雪はこれは虚構かもしれないとしている。
父時定の浪人後、比叡山の東軍権僧正のもとにあずけられ、この地で刀術の秘伝を学び、一流を開創したとされる。鑰之助は自ら流名を称することはなかったが、世人からは「東軍者」と呼ばれた。
『武芸小伝』によると、鑰之助は上野国白雲山(妙義山の古名)の神に祈って東軍流を起こしたともいう。
また、著名な子孫に加来耕三(本名 : 川崎耕一)がいる。
東軍流の道統
[編集]東軍流の道統は、東軍権僧正を開祖と仰ぎ、川崎鑰之助 - 川崎五郎 - 川崎太郎 - 川崎宗勝(次郎太夫)と継承された。宗勝が回国修行中、武蔵国忍(現埼玉県行田市)において多数の敵に襲われながらも切り抜けたことで、その武勇が知られるようになった。