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川島宏 (赤軍派)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川島 宏(かわしま ひろし、1942年頃 - 2022年6月3日)は、日本の新左翼活動家(赤軍派)。アーバンデザイナー

東大全共闘の主要なメンバーで、東大闘争を最初から最後まで戦い敗北した。大菩薩峠事件以後、赤軍派に身を投じ、よど号ハイジャック事件PBM作戦を主要な立場で担った。1970年7月11日逮捕され、実刑。のちに川島宏祥と改名し、アーバンデザインの設計者として後半生を生きた[注釈 1]

来歴

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静岡県静岡市に生まれる[1]士族だった家系で[1]、地主の父親は自由党[要曖昧さ回避]選出の静岡県議会議員だった[1]。父とは9歳の時に死別した[2]。1960年6月15日、静岡市での反安保デモに参加[3]。1961年、静岡県立静岡高等学校卒業[4]。1962年、東京大学理科一類に進学。

学生運動にかかわり、1963年にMELT同盟を結成し、1966年には「東大ベトナム反戦会議」に参加した[3]。1967年に東京大学大学院工学系研究科都市工学専門課程に進学[5]。大学院では丹下健三門下でトップの成績だった[6]

1968年に東大闘争が始まり、全共闘が結成されるとメンバーとなる[3]。1969年1月の東大安田講堂事件で東大闘争が事実上終結すると、同年の全国全共闘結成大会に参加の後、共産同赤軍派に加盟した。1970年には「長征」と称した全国オルグを開始。同年、赤軍派の第2次政治局員となる(他に塩見孝也田宮高麿高原浩之森恒夫[3]。しかし、7月11日に逮捕された。 よど号ハイジャック幇助の罪で懲役4年の実刑判決を受ける。

2022年6月3日に死去[3]

ハイジャックへの評価

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川島宏「物事というのは、やってみないと正しかったかどうだったかわからないことってあるもんじゃない。ハイジャックに関してもね、やってみて、やっぱり間違いだったなあって思った。なんであんな四日間も、あの人達を苦しめる権利が私たちにあるのだろうか、やっぱりこんなことすべきじゃないな、二度とすべきじゃないなと思ったわけね
金廣志「それはどういうことなんですか、乗客に対してということですか。」
川島「そうですね、乗客に対して、乗務員に対してもそうだけど。
金「そんなこと考えるもんですかねえ。」
川島「私は考えましたね。
雪野建作「それは当時?」
川島「当時考えた。いや、下部の方はやったやったぁであれかもしれないけど、私としては、やっぱりこれは間違いだったなと。それで、間違いだったんじゃないかっていうことを、最初は物江に言ったのね。物江もしばらく考えていたけど、うんやっぱり間違いだったんじゃないかと言ったね。」
金「これに対して総括文書を書けない状態になったとか。
川島「そう、総括文書を書けない。高原がとにかく書けなかった。それで物江が、私が書くっていったの。我々は間違ったって、そういうふうに書くって。それだけは止めてくれって高原が言うわけよ。それで物江が、総括にもならない総括、我々は断固としてやったみたいなのを書いたのよ、思ってもいないことを。それが新聞に載ったの・・・
— 『証言 連合赤軍』563頁

脚注

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  1. ^ a b c 『証言 連合赤軍』489,490頁
  2. ^ 『証言 連合赤軍』494頁
  3. ^ a b c d e リベラシオン社(「訃報」を参照)
  4. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版、168頁。
  5. ^ 『証言 連合赤軍』497頁
  6. ^ 『証言 連合赤軍』498頁

注釈

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  1. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 168頁に、「勤務先(株)川島宏祥都市建築設計研究所」とある。

参考文献

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  • 連合赤軍事件の全体像を残す会(編)『証言 連合赤軍』皓星社、2013年8月

関連項目

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外部リンク

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