川井為巳
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川井爲巳 かわい ためき | |
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生年月日 | 1850年11月19日 |
出生地 |
日本 和泉国南郡岸和田村 (現大阪府岸和田市) |
没年月日 | 1917年7月9日(66歳没) |
出身校 | 修武館 |
所属政党 |
(無所属→) (立憲同志会→) 憲政会 |
選挙区 | 大阪府郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1903年3月 - 1903年12月11日 1915年3月 - 1917年1月25日 |
川井 為巳(爲巳、かわい ためき、1850年11月19日(嘉永3年10月16日[1][2][注釈 1])- 1917年(大正6年)7月9日[3])は、幕末の岸和田藩士、明治から大正前期の実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・岡部。
経歴
[編集]和泉国南郡岸和田村(大阪府[3]泉南郡岸和田村[2]、岸和田町を経て現岸和田市[4])で、岸和田藩江戸家老・岡部魯山の二男として生れ[5][6][7]、安政5年(1858年)同藩国家老・川井鶤只の養子となり[5][6][7]、文久3年1月(1863年)家督を相続した[5][6][7]。藩校修武館で漢籍を修めた[2][3]。藩の重臣として幕末維新の状況に対処した[6]。
廃藩置県後、旧藩士族の代表として第五十一国立銀行設立発起人の一人となる[6]。以後、第五十一銀行頭取、大阪農工銀行頭取、大阪木津川セメント取締役、岸和田紡績取締役、和泉水力電気取締役、日本生命保険監査役、南海鉄道監査役、中村鉛筆監査役などを務めた[2][3][4][5][6][7]。
政界では、泉南郡会議員、所得税調査委員を務めた[3]。1903年(明治36年)1月、第8回衆議院議員総選挙に大阪府郡部から無所属で出馬して初当選[8]。1915年(大正4年)3月、第12回総選挙に大阪府郡部から立憲同志会所属で出馬して再選され[2][9]、その後憲政会に所属し衆議院議員に通算2期在任した[3][4]。この間、衆議院決算委員などを務めた[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大阪現代人名辞書』331頁、『人事興信録 第4版』か35頁、『日本ダイレクトリー』361頁では、8月16日。
出典
[編集]- ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、3頁。
- ^ a b c d e f 『現代日本の政治家』同志会123-124頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』179頁。
- ^ a b c 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』137頁。
- ^ a b c d 『大阪現代人名辞書』331頁。
- ^ a b c d e f 『日本ダイレクトリー』360-362頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第4版』か34-35頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』4頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』44頁。
参考文献
[編集]- 『大阪現代人名辞書』文明社、1913年。
- 清田伊平編『日本ダイレクトリー:御大典紀念』甲寅通信社編集部、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。