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川上米男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かわかみ よねお

川上 米男
蛍遊苑 長府製作所記念館内にある川上米男像
生誕 (1904-11-29) 1904年11月29日
日本の旗 日本 福岡県久留米市
死没 (1990-02-25) 1990年2月25日(85歳没)
山口県下関市
国籍 日本の旗 日本
出身校 九州帝国大学農学部
職業 実業家
活動期間 1928年 - 1990年
肩書き 株式会社長府製作所創業者、
代表取締役社長
元代表取締役会長
任期 1969年 - 1990年
子供 川上健三(三男)
川上康男(四男)
家族 福積忠男(女婿)
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川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1990年2月25日)は、日本実業家技術者である。長府製作所の実質的創業者であり、同社の社長と会長を歴任した。

経歴

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1904年福岡県久留米市に生まれる[1]第七高等学校(旧制)を経て[2]1928年3月九州帝国大学農学部を卒業する[3]

卒業後、農林省に入省し、農業試験場農機具の試験などを行った[1]1946年山口県農業会長府工場の製造部長に就任する[3]。8カ月ほどで見切りをつけたが、1949年山口県経済連(旧山口農業会)長府工場の再建を依頼され工場長として復帰し、以降実質的な経営者となる[1]

1954年長府工場が「株式会社長府製作所」へ改組後、専務取締役に就任する[1]1969年12月代表取締役社長に就任し、農機具メーカーからボイラーメーカーへ変身させた[4]1987年3月14日代表取締役会長に就任し、後任社長には福積忠男常務を三男の川上健三専務を飛び越えて抜てきした[5]。このことについては、「経営に私情はまじえられない。厳しい時代だから、その時点その時点で最良の人材を選ぶべきだ」と述べた[5]

1990年2月25日午前9時47分、肺がんのため山口県下関市の病院で死去、85歳[6]

略歴

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親族

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  • 三男は、元専務取締役の川上健三[1]
  • 四男は、現代表取締役会長の川上康男[8]
  • 社長と会長を務めた福積忠男は女婿にあたる[1]

関連書籍

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  • 川上米男(著)『中小企業の生きる道』産業能率短期大学出版部、1975年1月1日。 
  • ダイヤモンド社(編)『0の決断 : 川上米男物語』ダイヤモンド社、1979年10月1日。 

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ『日本の創業者 - 近現代起業家人名事典』(初)日外アソシエーツ、2010年。ISBN 9784816922398 
  2. ^ “カリスマ型――長府製作所社長川上米男氏(上)私心のなさを貫く(経営者の分類学)”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): pp. 28. (1984年7月23日) 
  3. ^ a b 故川上米男”. (財)川上米男奨学会. 2020年11月1日閲覧。
  4. ^ “カリスマ型――長府製作所社長川上米男氏(中)新たな挑戦(経営者の分類学)”. 日本産業新聞 (日本経済新聞社): pp. 24. (1984年7月24日) 
  5. ^ a b “長府製作所、社長に福積氏昇格――「私情まじえず抜てき」。”. 日本産業新聞 (日本経済新聞社): pp. 31. (1987年3月17日) 
  6. ^ “川上米男氏(死去)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): pp. 朝刊 35. (1990年2月26日) 
  7. ^ a b c 『株式会社長府製作所 第35期 有価証券報告書』(プレスリリース)長府製作所、1989年3月31日。 
  8. ^ “長府製作所社長に川上康男取締役が昇格――福積忠男社長は代表権のない会長に就任。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): pp. 朝刊 15. (1997年12月11日) 

関連項目

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外部リンク

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ビジネス
先代
(創業)
長府製作所社長
1969年 - 1987年
次代
福積忠男
先代
(創業)
長府製作所会長
1987年 - 1990年
次代
福積忠男