コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

嵐徳太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嵐長二郎から転送)

嵐 德太郎(あらし とくたろう、新字体:徳太郎)は、歌舞伎役者の名跡。代々が映画俳優となった。


あらし とくたろう
嵐 徳太郎
本名 片山 孝三郎(かたやま こうざぶろう)
別名義 嵐 菊麿(あらし きくまろ)
嵐 長二郎(あらし ちょうじろう)
生年月日 (1911-03-13) 1911年3月13日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 子役俳優俳優
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1916年 - 1938年
配偶者 あり
著名な家族 嵐璃徳 (養父)
主な作品
少年忍術春若丸
若殿行状記
鉄腕抜刀隊
テンプレートを表示

嵐 徳太郎(あらし とくたろう、1911年3月13日 - 没年不詳)は、日本の子役俳優俳優である[1][2]関西歌舞伎の舞台に幼少時に上がり、サイレント映画の子役として活躍した。のちに嵐 菊麿(-きくまろ)、嵐 長二郎(-ちょうじろう)と改名する[1][2]。本名は片山 孝三郎(かたやま こうざぶろう)である[1][2]

人物・来歴

[編集]

1911年(明治44年)3月13日京都市に「片山孝三郎」として生まれる[1][2]

当時関西歌舞伎の俳優だった嵐璃徳の養子になり、5歳で初舞台を踏む[1][2]。1920年(大正9年)5月、璃徳が一座とともに帝国キネマ演芸の設立に参加、9歳の徳太郎も入社、子役として映画に出演する[1][2]。同年、一座の座付作者だった中川紫郎が監督した『少年忍術春若丸』で初めて主演を務める[1]

17歳になる1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクション御室撮影所に移籍する[1][2]。1930年(昭和5年)にはマキノを退社し、1932年(昭和7年)には「嵐菊麿」の名で東活映画社、「嵐長二郎」の名で河合映画製作社の映画にそれぞれ出演する[2]。1933年(昭和8年)には「嵐徳太郎」に戻って新興キネマ、1934年(昭和9年)には阪東妻三郎プロダクションで映画出演する[1]ころにはすでに23歳である。その後1936年(昭和11年)、大都映画に入社するが、1938年(昭和13年)には退社した[1][2]

第二次世界大戦開戦後に召集されて戦地に赴き、終戦後もシベリア抑留される。帰国後は、古今友禅株式会社に勤務していた[1][2]。また徳太郎は後のインタビューで、養父の嵐璃徳は1945年(昭和20年)に大阪府で死亡したと伝えられているが、応召中の為死に目にもあえず、死も詳細も明らかでないのが心残り、と語っている[2]。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として京都府京都市上京区荒神口通河原町東入に在住している旨が記載されている[2]。しかし、その後の消息、死去時期などは不明である[1]没年不詳

フィルモグラフィ

[編集]

帝国キネマ演芸

[編集]

マキノ・プロダクション

[編集]

東活映画

[編集]
嵐菊麿

河合映画

[編集]
嵐長二郎

新興キネマ

[編集]

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優全集 男優篇』、キネマ旬報社、1979年、28頁。

外部リンク

[編集]