崔玉貴
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崔 玉貴(さい ぎょくき、1860年 - 1920年)は、清朝末期の宦官。養父は西太后の弟である承恩公桂祥(グイシャン)。
生涯
[編集]崔玉貴は直隷河間市崔張吉村(現在の河北省大城県)に生まれる。12歳で净身し、北京に上る。 まずは慶王府に仕えていたが、その後、宮中劇団を作り、武功の評判がよかったので、宮殿内の昇平府歌劇団で活動するよう推薦され、そこで演劇好きの西太后の目にとまり、気に入られ、第二総管まで出世する。 1900年の義和団事件で、八カ国連合軍が侵攻してきた際は、西太后の命で、光緒帝の寵妃の珍妃を井戸へ落とす等して殺害した。 この件に光緒帝は激怒したが、本来死罪になるはずの崔玉貴は死罪にはならず、第二総管の役職を解かれ、慶王府に戻されただけで、直ぐに紫禁城の西太后のもとに戻された。 光緒帝と西太后の死後、紫禁城を出て弟子の宦官たちと寺に住み、1926年に壊疽で死去した。
参考文献
[編集]《宮女談往錄》