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崔勉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

崔 勉(さい べん、生没年不詳)は、北魏から東魏にかけての官僚は宣祖。本貫博陵郡安平県

経歴

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崔孝芬と李氏のあいだの長男として生まれた。史伝を渉猟して、事件解決の才能があった。520年正光元年)、太学博士に任じられた。元子攸が御史中尉となると、崔勉は召されて侍御史となった。528年永安元年)、建節将軍・尚書右中兵郎中に任じられた。後に郎中のまま丹陽王蕭賛の下で太尉諮議参軍となった。推挙した人が失態を犯したため、崔勉は御史中尉の高恭之に糾弾されて免官された。531年普泰元年)、兼尚書左丞となった。尚書令の爾朱世隆に仕えて、尚書郎の魏季景と反目して争った。まもなく安南将軍・光禄大夫・兼国子祭酒となり、儀注をつかさどった。532年太昌元年)、散騎常侍・征東将軍・金紫光禄大夫・定州大中正に任じられた。爾朱氏と親しかったことから、高歓の擁した孝武帝政権の手が家まで伸びたが、崔勉は先だって地方に逃亡して収監を免れた。後に出頭して晋陽で高歓と面会し、高歓にねぎらわれた。東魏の天平末年、高歓の命により勲貴の妻子を定州に送り、郷里の家に帰ることができた。このころ母の李氏が死去したため、崔勉は哀哭のあまり身体を壊し、まもなく病没した。享年は47。

子はなく、弟の崔宣度の子の崔龍子が後を嗣いだ。

伝記資料

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