島町 (常陸太田市)
島町 | |
---|---|
北緯36度30分30.17秒 東経140度29分34.37秒 / 北緯36.5083806度 東経140.4928806度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 茨城県 |
市町村 | 常陸太田市 |
地区 | 常陸太田地区 |
標高 | 27.9 m |
人口 | |
• 合計 | 333人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
313-0047[3] |
市外局番 | 294[4](常陸太田MA) |
ナンバープレート | 水戸 |
※座標・標高は島町公民館の位置における値 |
島町(しまちょう[5])は、茨城県常陸太田市常陸太田地区の幸久地区にある町名。郵便番号は313-0047[3]。なお、地名の「島」は異体字で「嶋」と表記することがあった。
地理
[編集]常陸太田市の南部に位置する。標高30m前後の台地[6]である独立丘陵の上にある。この台地の上や山田川沿いには集落や畑が、台地の周りに広がる低地には水田が分布する。台地上やその周囲の斜面には針葉樹林も分布する。
河川
[編集]山
[編集]区域
[編集]区域の変遷
[編集]隣接する地区
[編集]歴史
[編集]島町にある埋蔵文化財包蔵地については梵天山古墳群#文化財なども参照。
地名の由来
[編集]#志万郷を参照。
縄文時代
[編集]古墳時代
[編集]島町のある丘陵全体には大部分[6]が茨城県の史跡に指定されている梵天山古墳群がある。その主墳の梵天山古墳(墳丘長151m)は石岡市の舟塚山古墳(墳丘長186m)に次いで茨城県内第2位の大きさ[6]の前方後円墳である。梵天山古墳は、その規模から久慈川流域を支配した首長の墳墓と見られ、初代久自国造の船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓と伝えられている[11]大古墳である。詳細は当該項目を参照。
志万郷
[編集]志万郷はのちの島村・小島村(小島はもとは大島と表記していた[12])・粟原村・中野村・大方村・高柿村(以上の6村はそれぞれ現在の小島町・粟原町・中野町・大方町・高柿町にあたる)等の6村に当たる地域に[12]古代にあった久慈郡の郷[9]。平安期に見える[9]。地名の志万は旧字体では志萬と表記する。
地名が「しま」である由来は、北方を山田川が南東流し、南方を久慈川が東流して南東で合流することで島のような地形となっていることである[12]。
島村
[編集]島村 | |
---|---|
廃止日 | 1889年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 上河合村、下河合村、藤田村、粟原村、島村→幸久村 |
現在の自治体 | 常陸太田市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 茨城県 |
郡 | 久慈郡 |
市町村コード | (当時存在せず) |
隣接自治体 | 久慈郡小島村、粟原村、那珂郡門部村、久慈郡上河合村、藤田村 |
島村役場 | |
所在地 | 茨城県 |
外部リンク | (当時存在せず) |
ウィキプロジェクト |
島村はおおよそ現在の島町に当たる地域に近世にあった[9]村。江戸期から[9]1889年(明治22年)4月1日まであった。江戸時代には常陸国久慈郡に属していた。島村の西に隣接していた小島村(おおよそ現在の小島町に当たる)は往古島村から分村したものである[13]。はじめ佐竹氏領だったが、慶長14年(1609年)からは(常陸)水戸藩領[9]。
広袤
[編集]『新編常陸国誌. 上』 548コマ目によって記載する。
村高
[編集]- 水戸領郷高帳(寛永12年(1635年)) ⋯⋯ 725石余[9]
- 常陸国郷帳(元禄郷帳) ⋯⋯ 1161石6斗9升3合[14]
- 天保13年(1842年ごろ)の検地帳[13] ⋯⋯ 分米は1211石4斗2升7合(田畠は118町1反5畝19歩)
- 旧高旧領取調帳[15] ⋯⋯ 以下に領主が年貢徴収の基準とした見積生産高を記載する。
寺社
[編集]『新編常陸国誌. 上』 548コマ目や『新編常陸国誌. 下』 67コマ目には、島村の寺院として以下の二つが記載されている。なお、神社の記載はない。
小名
[編集]等。
島村の廃止とそれ以降
[編集]町村制の施行のための明治の大合併で島村は1889年(明治22年)に近隣4村と合併(新設合併)し、「島」という地名はその合併によってできた久慈郡幸久村の大字となった。その大字島には幸久村の村役場が置かれた(ただし幸久村役場所在地名を上河合とする資料[18]もあり、現在幸久公民館があるのも上河合町である)。
その後幸久村は昭和の大合併において、近隣の5村とともに太田町に編入され、消滅。同日太田町は市政施行・改称して常陸太田市となり、旧島村の範囲はその常陸太田市の島町という町名となった。
沿革
[編集]- かつては久慈郡島村であった。
- 明治初年
- 1871年(明治4年)
- 1878年(明治11年)12月2日
- 郡区町村編制法の茨城県での施行により、行政区画としての久慈郡が発足。
- 1889年(明治22年)
- 町村制施行により幸久村が発足。
- 1954年(昭和29年)7月15日
- 1976年(昭和51年)
町名の変遷
[編集]成立後 | 成立年月日 | 成立直前 |
---|---|---|
(常陸太田市)島町 | 1954年(昭和29年)7月15日 | (幸久村)大字島 |
世帯数と人口など
[編集]2018年(平成30年)6月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[19]。
町名 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
島町 | 121世帯 | 333人 |
島町の人口は以下のように推移している。
島町の人口の推移[20]
2000年(平成12年)10月1日 | 404人 | |
2005年(平成17年)10月1日 | 373人 | |
2010年(平成22年)10月1日 | 357人 | |
2015年(平成27年)10月1日 | 343人 |
島町の世帯数は以下のように推移している。
島町の世帯数の推移[20]
2000年(平成12年)10月1日 | 121世帯 | |
2005年(平成17年)10月1日 | 124世帯 | |
2010年(平成22年)10月1日 | 132世帯 | |
2015年(平成27年)10月1日 | 118世帯 |
戸数など
[編集]現在の島町にあたる地域の戸数などに関する記録は以下の通りである。
- 「水府志料」によれば、島村の戸数は91であった[9]。
- 『角川日本地名大辞典 8 茨城県』(486ページ)によれば、明治24年(1891年)の幸久村大字島の戸数は105、人口は642、厩は40であった。
施設
[編集]公民館
[編集]寺院
[編集]神社
[編集]交通
[編集]路線バス
[編集]- 茨城交通
- 総合福祉会館~常陸太田駅~市役所~中野十文字線
- 島町馬場下バス停
- 鹿志村商店前バス停
- 島町西バス停
- 総合福祉会館~常陸太田駅~市役所~中野十文字線
道路
[編集]- 茨城県道166号和田上河合線 - 島町の北東端に接する県道。
- 茨城県道62号常陸那珂港山方線 - 島町の南西端に接する県道。
文化財
[編集]梵天山古墳群#文化財なども参照。
茨城県指定文化財
[編集]小字
[編集]- 『角川日本地名大辞典 8 茨城県』1447ページの記載により島町内の小字とその読みを記す。
- 上の#小名に記載したもの(旧字体・新字体や異体字といった字体の違いがあるものも含める)は読みを太字にした。ただし下表には「塚[注 2]越」がない代わりに「塚[注 2]越町」があり、「宮下町」がない代わりに「宮下」がある。
- 所々に誤字と見られる字(例:「鍛治」(正しくは「鍛冶」か))があるが、原典のままにしておいた。
小字名 | 読み |
---|---|
東新川戸 | ひがししんかわど |
東嶋後 | とうじまうしろ |
東山 | ひがしやま |
東嶋前 | とうじままえ |
東鍛治屋 | ひがしかじや |
東島 | とうじま |
西新川戸 | にししんかわと |
松木下 | まつのきした |
土取 | つちとり |
六反町 | ろくたんまち |
山下 | やまじた |
根柄町 | ねがらまち |
蛭町 | ひるまち |
後谷 | うしろや |
岩井崎 | いわいざき |
五反田 | ごたんた |
下五反田 | しまごたんた |
松山 | まつやま |
小鶴前 | こづるまえ |
仲鞠子 | なかまりこ |
上鞠子 | かみまりこ |
上江幡 | かみえばた |
行人塚[注 2] | ぎょうにんつか |
下鞠子 | しもまりこ |
東鞠子 | ひがしまりこ |
谷原 | やはら |
上高田 | かみたかだ |
下高田 | しもたかだ |
半溜 | はんため |
東半溜 | ひがしはんため |
大町 | おおまち |
苅原 | かりはら |
小祝町 | こいわいちょう |
大師房 | だいしぼう |
日渡 | ひわたし |
山王町 | さんのうちょう |
芳谷 | よしや |
下苅原 | しもかりはら |
象町 | ぞうまち |
九反町 | くたのちょう |
皿ノ子 | さらのこ |
塚[注 2]田町 | つかだまち |
阿象町 | あぞうまち |
木敷町 | きしきちょう |
操町 | むくりまち |
向大〆 | むこうおおしめ |
舟越 | ふなこし |
前大〆 | まえおおしめ |
築田 | つくだ |
神田 | じんでん |
榎町 | えのきまち |
蓬町 | よもぎまち |
下蓬町 | しもよもぎまち |
内証町 | ないしょまち |
塚[注 2]越前 | つかごしまえ |
田里原 | たちつばら |
竈内 | かまどうち |
上川原 | かみがわら |
西鍛冶屋 | にしがじや |
塚[注 2]越前東 | つかごしまえひがし |
塚[注 2]越町 | つかごしちょう |
宮下 | みやした |
台山 | だいやま |
岡町 | おかちょう |
御所内 | ごしょうち |
馬場下 | ばばじた |
下神田 | しもじんでん |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 地理院地図(2017年5月15日午後9時8分(JST)閲覧)で得られる標高値(データソースはDEM5A。標高値について (PDF) 参照。)
- ^ “町内別人口(平成30年6月1日現在)”. 常陸太田市 (2018年6月4日). 2018年6月13日閲覧。
- ^ a b 島町の郵便番号 - 日本郵便(2018年1月18日午後8時36分(JST)閲覧)
- ^ 市外局番の一覧(平成29年4月26日現在) (PDF) - 総務省(2018年1月18日午後8時54分(JST)閲覧)
- ^ 住所表記 - 常陸太田市公式ホームページ(2018年1月18日午後9時11分(JST)閲覧)
- ^ a b c d 梵天山古墳群 - 茨城県教育委員会(2017年5月15日午後5時27分(JST)閲覧)
- ^ 地理院地図(2017年5月15日 午後8時29分(JST)閲覧)の地図情報(注記)のベクトルタイル提供実験(ベクトルタイル提供実験を参照)の梵天山の項の記載
- ^ 地理院地図の標準地図(2017年5月15日 午後8時29分(JST)閲覧)({y}.png (627×54)、地理院地図|地理院タイル一覧を参照。データソースは電子国土基本図(電子国土基本図(地図情報)|国土地理院を参照。)。)の梵天山の地点の標高の記載
- ^ a b c d e f g h i j 『角川日本地名大辞典 8 茨城県』486ページ
- ^ リンクは遺跡ウォーカーの島遺跡のページ。
- ^ 現地説明板
- ^ a b c 『新編常陸国誌. 上』 217コマ目
- ^ a b 『新編常陸国誌. 上』 548コマ目
- ^ 常陸国郷帳 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ(2017年5月16日午前5時29分(JST)閲覧)
- ^ 旧高旧領取調帳データベースの検索(2017年5月16日午前5時29分(JST)閲覧)
- ^ a b c 『新編常陸国誌. 下』 67コマ目
- ^ a b c d e f 県内神社紹介 - 茨城県神社庁(2017年7月25日午前3時55分(JST)閲覧)
- ^ 『茨城県久慈郡是』
- ^ 町内別人口(平成30年6月1日現在) - 常陸太田市公式ホームページ(2018年6月13日午後0時(昼)52分(JST)閲覧)
- ^ a b 「町内別人口 ※平成27年国勢調査町内別人口が公表された為,平成27年10月1日現在~平成29年1月1日現在について修正したものを掲載しました。(H29.2.2)」(常陸太田市公式ホームページ内)でリンクしているページ(2018年1月2日午後11時6分(JST)閲覧)
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 8 茨城県』1116ページ
- ^ a b c d e 『日本歴史地名大系第八巻 茨城県の地名』常陸太田市 宝金剛院の項(162ページ)。
参考文献
[編集]- (梵天山古墳群の)現地説明板
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三 編『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店、1983年12月8日。ISBN 4040010809。
- 平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系第八巻 茨城県の地名』平凡社、1982年。ISBN 4582490085。
- 中山信名 編『新編常陸国誌. 上』積善館、1901年、967頁 。2017年5月16日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。
- 中山信名 編『新編常陸国誌. 上』積善館、1901年、320頁 。2017年12月22日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。
- 中山信名 編『新編常陸国誌. 下』積善館、1901年、83頁 。2017年12月22日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。
- 茨城県久慈郡 編『茨城県久慈郡是』茨城県久慈郡、1916年、10頁 。2018年2月24日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、23コマ目。
関連項目
[編集]- 島町(曖昧さ回避)
外部リンク
[編集]藤田町 | ||||
小島町 | 上河合町 | |||
島町 | ||||
粟原町 |
座標: 北緯36度30分30.17秒 東経140度29分34.37秒 / 北緯36.5083806度 東経140.4928806度