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島津良知

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島津良知

島津 良知(しまづ よしとも、1858年9月14日安政5年8月8日[1][2])- 1936年昭和11年)2月27日[1][3])は、明治から昭和前期の実業家政治家衆議院議員長崎県東彼杵郡彼杵村長。旧姓は川尻。

経歴

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肥前国彼杵郡彼杵村坂本郷[1]長崎県[3]東彼杵郡彼杵村[4]彼杵町を経て現東彼杵町坂本郷)で島津彦兵衛の長男として生まれる[1][2]。1876年(明治9年)8月、祖父[5]・川尻源内の養子となり家督を相続した[1]。漢学、英学、数学を修め[2]長崎県師範学校を卒業[2][3][4]。その後数年間、教員を務めた[2]

1885年(明治18年)長崎県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同参事会員、地方森林会議員、徴兵参事員、地方衛生会委員などを務めた[1][2][3][4]。1889年(明治22年)4月、町村制施行により彼杵村が発足し、同年5月、初代村長に就任し、1892年(明治25年)5月まで在任した[1]。1895年(明治28年)6月、島津に復姓した[1]

1898年(明治31年)長崎県農工銀行が設立され取締役に就任[1]。その他、長崎製塩社長、長崎新報取締役などを務めた[2][3][4]

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(長崎県郡部、立憲政友会)で初当選[6]第8回総選挙では落選したが、西村規矩の死去に伴い繰上補充となり[7]第9回総選挙でも再選され、衆議院議員に3期在任した[3][4]

1909年(明治42年)日本製糖汚職事件で検挙され、同年7月3日に、東京地方裁判所第二刑事部において重禁固4ヶ月、執行猶予3年の有罪判決が言い渡された[8]。これにより勲四等を褫奪された[9]

その後、長崎県農工銀行頭取、彼杵銀行取締役、九州製茶輸出取締役などに在任し[3][4][5]、製茶の改良・輸出などに尽力した[1]

国政選挙歴

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『水と緑と道 東彼杵町誌 上巻』1088頁。
  2. ^ a b c d e f g 『人事興信録 初版』1066頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』313頁。
  4. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』222頁。
  5. ^ a b 『人事興信録 第8版』シ65頁。
  6. ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』7頁。
  7. ^ a b 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数』240頁。
  8. ^ 「日糖事件 - 汚職事件と検察権の拡大」504-511頁。
  9. ^ 官報 1909年09月21日 三六三頁

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 雨宮昭一「日糖事件 - 汚職事件と検察権の拡大」『日本政治裁判史録 明治・後』第一法規出版、1969年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 東彼杵町教育委員会編『水と緑と道 東彼杵町誌 上巻』東彼杵町教育委員会、1999年。