島津忠仍
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正2年(1574年) |
死没 | 元和7年5月29日(1621年7月18日) |
改名 | 鎌徳丸(幼名)、又八郎、源七郎(通称) |
別名 | 東郷重虎 → 島津忠直 → 忠仍 |
戒名 | 然叟清廓居士 |
主君 | 島津義弘 → 島津家久(忠恒) |
氏族 | 島津氏(惟宗朝臣) → 東郷氏(平朝臣) → 島津氏 |
父母 |
父:島津家久、母:樺山善久女、 義父:東郷重尚 |
兄弟 |
豊久、忠仍、女(禰寝重張室)、 女(佐多久慶室)、 女(島津久信室、相良頼安室) |
妻 | 上井覚兼の娘、日高氏の娘 |
子 |
娘(喜入忠栄室)、忠昌、東郷重経、 東郷重頼 養子:忠栄 |
島津 忠仍 (しまづ ただなお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。薩摩国島津氏庶流。始め東郷氏、のちに島津氏に復姓した。
生涯
[編集]島津貴久の四男・家久の次男として誕生したが、天正5年(1577年)2月3日に東郷重尚の養子となり東郷 重虎と称した。
天正8年(1580年)の水俣出陣の際、僅か7歳で実父・家久に付いて出陣している。天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、高城が落城すると忠仍は島津領に退去する。ただしこの時、義父・重尚がこの前後に病没しており、忠仍もまだ少年であったため、忠仍は父の領地である日向国佐土原に戻り、自領には家臣らのみで籠城している。
文禄元年(1592年)、実兄の島津豊久に従い文禄・慶長の役に従軍し朝鮮に渡海、その際に島津義弘の命により東郷から島津に復姓、名を島津忠直と改めた(忠仍表記とした年代は不明)。しかし陣中で発病した為に佐土原に戻った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄の豊久が戦死すると、豊久に嫡子が無かったため慶長9年(1604年)忠仍にその遺領を継ぐよう命が下るが、病身を理由に自身の娘婿に喜入忠続の子・忠栄を迎えてこれを継がせ、自らは知行1,000石で大隅国三躰堂村に隠棲した。
元和7年(1621年)に病死した。自らの跡目は嫡男の忠昌が継いだが、寛永9年(1632年)に島津姓を辞退する旨を上申し、翌年に受理されたため東郷に復姓した(東郷昌重と称する)。更に忠昌は樺山久尚の養子となったため(樺山久広と称する)、次男の重経が跡目を継いだ。重経と忠仍の三男の重頼兄弟も東郷姓に復し、重頼の子である源四郎忠辰は本城氏を名乗った。
参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
- 稲葉行雄 『「さつま」歴史人名集』(高城書房出版)ISBN 4-924752-28-2