コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

島村孝三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島村 孝三郎(しまむら こうさぶろう、????年-1966年10月24日[1][2])は日本考古学者東亜考古学会の幹事として活動したことで知られるが[3]、ほかに南満州鉄道大連図書館の初代館長などを務めた[4]

概要

[編集]

1900年(明治33年)、東京帝国大学法科を卒業[1]

大学卒業後は台湾統治に関わる植民地官僚など[注釈 1]を務めたのち[5]1907年(明治40年)に大連に移住し[6]南満州鉄道に入社する[1]。入社2年目のころ、満鉄調査課の次席となった時期に岡松参太郎から図書事務の監督を命令される[7]。そこで1919年(大正8年)に満鉄・大連図書館の初代館長に就任する[3][4]。当時、図書館長だけでなく参考品陳列所長を兼務しており、むしろ後者のほうに熱心な様子であった[4]

満鉄を退職後は一時政治に志したが[1]、1926年に濱田耕作原田淑人とともに東亜考古学会を設立する[8][9]。戦後、モヨロ貝塚登呂遺跡の発掘に関与し[10][3]、またアイヌ研究にも関心を持ち金田一京助服部四郎に働きかけていた[11][12][13]

古稀を過ぎて引退していたが、1966年(昭和41年)10月24日死去[1]。享年92[1][注釈 2]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 駒井和愛によると、「卒業後、中国武昌で育英に従事」[1]
  2. ^ 没年から遡ると、92歳が数え年なら1875年(明治8年)生まれ、満年齢だとすれば1873年(明治6年)あるいは1874年(明治7年)生まれということになる。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 駒井 1966, p. 68.
  2. ^ 日外アソシエーツ編 2006, p. 1966.
  3. ^ a b c 黒沢 2004, p. 25.
  4. ^ a b c 橋本 1937, p. 389.
  5. ^ 若林 2017, p. 66.
  6. ^ 島村 1933, p. 18.
  7. ^ 島村 1937, p. 364.
  8. ^ 坂詰 1994, p. 2.
  9. ^ 原田 1970, p. 38.
  10. ^ 斎藤 1963, p. 5.
  11. ^ 金田一 1948, p. 1.
  12. ^ 服部 1964, p. 5.
  13. ^ 若林 2017, pp. 66–67.

参考文献

[編集]
  • 金田一京助「蝦夷即アイヌの論:此の一篇を島村孝三郎先生に捧ぐ」『民族学研究』第13巻第1号、1948年、1-20頁。 
  • 黒沢浩「本から見た日本の考古学(14)」『日本古書通信』第68巻第12号、2003年、6-7頁。 
  • 黒沢浩「本から見た日本の考古学(16)」『日本古書通信』第69巻第2号、2004年、24-25頁。 
  • 駒井和愛「評議員島村孝三郎翁逝去」『考古学雑誌』第52巻第2号、1966年、68頁。 
  • 斎藤忠「最寄(モヨロ)貝塚の調査の沿革」『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』東京大学文学部、1963年、1-6頁。 
  • 坂詰秀一「日本考古学史拾遺:東亜考古学会・東方考古学協会と日本古代文化学会」『立正大学文学部論叢』第99巻、1994年、31-57頁。 
  • 島村孝三郎「老鉄山麓の石斧から関東庁博物館の創立まで」『ドルメン』昭和8年4月号、1933年、18-19頁。 
  • 島村孝三郎 著「図書館の創設」、荒川隆三 編『満鉄教育回顧三十年』満鉄地方部学務課、1937年、364-365頁。 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『人物物故大年表 日本人編 Ⅱ(1946~2004)』日外アソシエーツ株式会社、2006年。 
  • 橋本八五郎 著「歴代大連図書館長」、荒川隆三 編『満鉄教育回顧三十年』満鉄地方部学務課、1937年、389-393頁。 
  • 服部四郎 著「序説」、服部四郎 編『アイヌ語方言辞典』岩波書店、1964年、5-29頁。 
  • 原田淑人「東亜考古学会の果した役割を顧みて」『月刊考古学ジャーナル』第42巻、1970年、2-5頁。 
  • 若林和夫「島村孝三郎はなぜ服部四郎へアイヌの研究を勧めたか:戦前戦後の体験者としての考古学者とアイヌ」『北海道民族学』第13号、2017年、66-67頁。 

関連項目

[編集]