島崎城 (越後国)
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島崎城 (新潟県) | |
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別名 | 奈良崎城・奈良崎砦 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 不明 |
築城年 | 14世紀 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 風間信昭ほか |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪・空堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
登録文化財 | 史跡等未登録[1] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 | 長岡市No.844[2] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯37度35分30.4秒 東経138度46分08.5秒 / 北緯37.591778度 東経138.769028度座標: 北緯37度35分30.4秒 東経138度46分08.5秒 / 北緯37.591778度 東経138.769028度 |
地図 |
島崎城(しまざきじょう)は、新潟県長岡市島崎にあった南北朝時から室町時代にかけての日本の城。別名は奈良崎城(ならさきじょう)、または奈良崎砦(ならさきとりで)。
歴史
[編集]南北朝時代の北朝方の武将・色部高長が残した軍忠状「色部高長軍忠状案」によれば、南朝方に属した風間信昭のほか小国氏、河内氏、池氏、於木氏、千屋氏、高梨氏らが、1336年(建武3年)に越後の「島崎城郭」に篭城して北朝方と交戦したが、高長や加地景綱らの北朝軍に搦手から攻撃され落城したと記されている[3][4]。
この島崎城の比定地として、日本海に面した角田山・弥彦山山塊と、南西の西山丘陵までを連絡する低丘陵地帯の一角で、島崎川の低地に半島状に突き出した一稜線の末端に位置する奈良崎砦(奈良崎遺跡に含まれる)が最有力地と目されてきた[4]。
1989年(平成元年)から1999年(平成11年)まで同遺跡で行われた、国道116号・和島バイパス建設工事に先立つ新潟県埋蔵文化財調査事業団による発掘調査では、人工的に平坦地化された曲輪のほか、掘立柱建物や地下式坑などの中世城郭関連遺構が見つかった。それらの年代は、共伴する遺物の様相から14世紀の南北朝時代に遡るため、先の史料に見える島崎城=奈良崎砦である可能性がより高くなったとされている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b 「長岡市内指定文化財一覧」長岡市立科学博物館公式HP
- ^ 「新潟県の遺跡地図・一覧表」新潟県公式HP
- ^ 平井ほか 1980 p.98
- ^ a b 財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団 2002 p.14
- ^ 財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団 2002 p.156
参考文献
[編集]- 財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団 2002『奈良崎遺跡』(新潟県埋蔵文化財調査報告書116)新潟県教育委員会