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岩田鶴皐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩田 鶴皐(いわた かくさい、1866年7月26日慶応2年6月15日) - 1938年昭和13年)2月11日[1])は、日本の書家日下部鳴鶴の弟子である。本名は要輔[2]。号は群鵞居士、刀寧漁夫[1]

下総国相馬郡高野村(現・茨城県守谷市高野)出身。茨城師範学校を卒業後、茨城県・神奈川県の小学校、神奈川師範学校埼玉師範学校で教師を務める。1921年に書道雑誌『郡鵞』を発刊。日本美術協会評議員、泰東書道院総務審査員、大日本書道院総務審査員を務めたほか、1936年には日本書道学校を創設するなど書道界の発展に尽力した[1]

1927年当時の住所は東京市牛込区矢来町2番地26号[3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『日本能書家伝』(青蛙房、1962年)p.138
  2. ^ 岩田, 鶴皐, 1866-1938 - 国会図書館典拠データ検索・提供サービス
  3. ^ 奥山錦洞 (1927). “九、岩田鶴皐”. 日本書道史. 啓文社書店. pp. 369-371. https://books.google.co.jp/books?id=xTkzTs4_l6AC&pg=PP481 2022年2月23日閲覧。