岩松守純
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 元和2年2月9日(1616年3月26日) |
別名 | 満次郎、治部大輔(通称)、破瓢斎(号) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 岩松氏 |
父母 | 父:岩松氏純、母:梁田中務少輔の娘 |
妻 | 金井右馬允の娘 |
子 | 清純、豊純、脇屋純俊、脇屋宗度、脇屋重政、千葉邦胤室(東の局)、大谷兵助妻、井原光隆妻、長谷川氏妻 |
岩松 守純(いわまつ もりずみ)は、上野国の戦国大名。江戸幕府旗本。新田岩松氏14代当主。
経歴
[編集]天文元年(1532年)、13代当主・岩松氏純の嫡男として生まれる。父・氏純は筆頭家老である横瀬成繁(由良成繁)によって専横され、天文17年(1548年)に自害している。
このため家督を継いで14代当主となるが、成繁によってなおも専横され、遂に居城・金山城を成繁によって奪われた。この時点で、大名としての岩松氏は滅亡したといえる。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東入府するとこれを祝う書状を送っている。江戸幕府が創立されると、慶長16年(1611年)嫡男・豊純と共に家康に召し出されたが、祖先である新田氏の家系図を見せた際に失言をしたため、この時は手ぶらで帰されている。家康が新田氏の末裔を僭称していることと関係があるのではないか、などと推測されており、「我が家が本流であり、徳川家が末裔だとしても庶出の傍流である」と発言した、というような話も残ってはいるが、正式な史料上は解明されていない。
その後、新田郡市野井村感応寺曲輪で20石を与えられる旗本となり、のち当地の代官であった黒川正秀[1]により世良田に移住させられた。元和2年(1616年)に死去。享年85。
跡を嫡男・豊純が継いだ。
脚注
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