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岡定俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡 定俊(おか さだとし、永禄10年(1567年)-元和8年(1622年))は、戦国時代から江戸時代にかけての武将左内(さない)の通称で知られ、蒲生家上杉家それぞれに重臣として仕えた。

生涯

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父は若狭太良庄城(福井県小浜市)の城主、岡和泉守盛俊という。岡越後守と称し、は定俊。岡野左内、岡野定政、岡野定俊と書かれることもある。後に編纂された『 上杉将士書上』など上杉家の関連文書では岡野左内となっていることから、岡野の表記も多く定まっていない。ただし現存する史料では、慶長2年(1597年)に蒲生家が村の境界争いに出した裁定書に、奉行人の一人として岡左内の名で署名がある。

元亀4年(1573年)に織田信長が若狭を制圧した後、領主となった丹羽長秀に仕えずに若狭を離れ、蒲生家に仕官したものと考えられる。『武徳編年集成』によれば天正12年(1584年)秋から半年の間、蒲生氏郷木造具政の篭城する戸木城を包囲した。この戦いで18歳の岡源八なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったという。この源八が左内であるとされる。

合戦で多くの功績を挙げ、氏郷が会津92万石を領してからは1万石の知行を与えられた。氏郷没後の慶長3年(1598年)、蒲生騒動宇都宮18万石に減封となったが、ここで蒲生家に替わり会津を領地とした上杉家に仕え直した。上杉家家老の直江兼続から4200石を与えられている。上杉家と伊達家が争った慶長5年(1600年)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。『武辺咄聞書』によれば、南蛮伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。上杉氏が120万石から米沢30万石に転封されると、再び会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕え、慶長14年(1611年)頃に1万石の猪苗代城城代に任ぜられ、越後守と称した(『氏郷記』)。熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。

しかし元和8年(1622年)頃、キリシタンへの弾圧が強まると、これを危惧した甥の岡清長(左衛門佐)が左内とその子に迫って棄教させたという[1]。間もなく左内は死去し[注釈 1]、清長が猪苗代城代に任じられた[2]。蒲生家が伊予松山藩に移された後、清長は仕置(家老)に任じられたが、蒲生郷喜を排除しようとして御家騒動を起こし、追放処分になったという(寛永蒲生騒動[3]

子孫は後に蒲生家が改易されてからは、黒田家津軽家に仕官した。

いくつかの逸話が知られているが、利殖に巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのを楽しみとしたという。この話はよく知られ、『雨月物語』中の一篇「貧福論」にも採用されている。単なる守銭奴ではなく、慶長5年(1600年)の会津征伐では上杉家諸将が急な戦費調達に苦しむ中、こういう時にこそ惜しみなく使わねばならないと、財貨を主君の景勝に献上し、同僚に貸し与えた。上杉家の転封に当たっては、借財の証文を全て焼き払って退散し、直江兼続からもその人物を惜しまれたという。

脚注

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注釈

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  1. ^ イエズス会ジョアン・マテウス・アダミが作成した年次報告書によれば、1622年8月(西暦)に左内の子が死去し、その数日後に左内も事故死したと記している。父子揃っての突然死は直前のキリスト教棄教とともに真相は不明と言える。戸木城の戦いの時に18歳とすればこの時には56歳となる。

出典

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  1. ^ 尾下成敏「蒲生氏と徳川政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第三節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5)P.224
  2. ^ 尾下成敏「蒲生氏と徳川政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第三節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5)P.272.
  3. ^ 尾下成敏「蒲生氏と徳川政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第三節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5)P.274-277.

参考文献

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  • 『日本人名大辞典』講談社、2009年
  • 『福島県史料情報第24号』福島県歴史資料館、2009年