山鹿城 (筑前国)
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山鹿城 (福岡県) | |
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城郭構造 | 山城 |
築城主 | 藤原藤次 |
築城年 | 天慶年間 |
主な城主 | 山鹿氏、麻生氏 |
廃城年 | 天正15年(1587年)頃 |
遺構 | 曲輪、土塁 |
位置 | 北緯33度53分50秒 東経130度40分11秒 / 北緯33.89722度 東経130.66972度座標: 北緯33度53分50秒 東経130度40分11秒 / 北緯33.89722度 東経130.66972度 |
山鹿城(やまがじょう)は、福岡県遠賀郡芦屋町にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]福岡県遠賀郡芦屋町の標高40mの丘陵上にあり、遠賀川河口部に位置する水運の要衝だった。城跡は北西・東南方向が主軸となっており、本丸と二の丸はそれぞれ60×20m、70×30mほどの広さだった。本丸南の急斜面の下にはかつて三の丸があり、現在は白山神社となっている。
歴史
[編集]天慶年間に鎮西奉行となった藤原秀郷の弟・藤原藤次により、築城された。藤次は姓を山鹿に改め、山鹿氏は当城を代々の居城とした。寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際には、安徳天皇をはじめ平氏一門を山鹿秀遠が当地に迎えた。秀遠は平氏とともに敗れ、当城も鎌倉幕府に没収された。
鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。室町時代には庶流の麻生氏が花尾城で権勢を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに麾下に組み込まれた。戦国時代には麻生氏の出城となり、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年