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山霧丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山霧丸
基本情報
船種 貨物船
クラス 善洋丸級貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 大洋興業
山下汽船
運用者 大洋興業
山下汽船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業横浜船渠
母港 神戸港/兵庫県
姉妹船 善洋丸慶洋丸山月丸他3隻[1]
信号符字 JLNM
IMO番号 44612(※船舶番号)
建造期間 209日
就航期間 2,058日
経歴
起工 1937年12月6日[1]
進水 1938年5月13日[1]
竣工 1938年7月2日[1]
処女航海 1938年7月23日[1]
除籍 1944年3月31日
最後 1944年2月18日被弾沈没
現況 ダイビングスポット
要目
総トン数 6,438.83トン
純トン数 4,823トン
載貨重量 9,451トン
排水量 13,815トン(満載)
全長 139.0m
垂線間長 133.92m
型幅 17.76m
型深さ 9.75m
高さ 27.12m(水面からマスト最上端まで)
14.32m(水面からデリックポスト最上端まで)
8.22m(水面から船橋最上端まで)
10.66m(水面から煙突最上端まで)
満載喫水 7.84m[1]
主機関 三菱MAN複動2サイクル蒸気噴油式ディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 4,700BHP[2]
最大速力 17.06ノット[2]
航海速力 13.5ノット(満載)[1]
航続距離 14ノットで47,000海里
1941年9月5日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)。
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山霧丸
基本情報
艦種 特設運送船
艦歴
就役 1941年9月20日(海軍籍に編入時)
佐世保鎮守府部隊/佐世保鎮守府所管
要目
兵装 40口径8cm砲1門
九二式7.7mm機銃1挺
三八式小銃5挺
軽便防雷具1組
装甲 なし
搭載機 なし
徴用に際し変更された要目のみ表記。
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山霧丸(やまぎりまる)は山下汽船の貨物船[1]

概要

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山霧丸は東洋汽船、山下汽船および東洋海運向けに7隻が建造された善洋丸型の一隻で[4]、同型船は善洋丸慶洋丸山月丸多摩川丸淀川丸加茂川丸[1]

船歴

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大洋興業は山下汽船に傭船される前提で山霧丸・山霧丸等の新造を決定し、三菱重工業横浜船渠に発注した[1][5]。山下汽船では1937年昭和12年)10月に極東とニューヨーク・南米間の航路を開設し、同航路用の大型型貨物船を必要としていたからであった[6]。建造中、山霧丸は山月丸と共に山下汽船に売却された[2]

山霧丸は1937年12月6日に起工[1]1938年(昭和13年)5月13日進水[1]、同年7月2日に竣工[1]。船名は山下汽船所有船の「山○丸」という命名慣例に沿って命名された。竣工後は7月23日に神戸から処女航海に出発した[1]

1941年(昭和16年)9月15日、山霧丸は海軍に徴傭され[1][7]、9月20日に佐世保鎮守府所管の特設運送船(雑用船)として入籍[8]

1942年(昭和17年)1月、アンボン攻略に参加[9]。陸軍部隊を運ぶ輸送船が第一梯団となり、山霧丸を含む海軍輸送船6隻が第二梯団となった[10]。1月29日0時に第二梯団は第十六駆逐隊の護衛でバンカ泊地より出撃[11]。1月30日23時にヒトラマ泊地に進入し、呉鎮守府第一特別陸戦隊を上陸させた[12]

9月から10月、陸軍部隊の南東方面への輸送(沖輸送)に従事[13]。山霧丸は佐伯発の第三船団の一隻であった[14]。第三船団は山霧丸と陸軍輸送船かんべら丸大阪商船、6,477トン)、特設運送船藤影丸(山本汽船、4,004トン)からなり、駆逐艦等の護衛で9月29日に佐伯より出発し[14]、10月10日にラバウルに着いた[15]

1943年(昭和18年)8月25日、山霧丸は特設運送船(給炭油船)朝風丸(山下汽船、6,517トン)、海軍一般徴用船日遼丸(三菱汽船、2,721トン)、陸軍輸送船たこま丸(大阪商船、5,772トン)他輸送船1隻と共にオ605船団を編制し、第38号駆潜艇、第39号駆潜艇、第22号掃海艇の護衛を受けてラバウルを出港しパラオへ向かうが、27日午後、南緯01度49分 東経149度37分 / 南緯1.817度 東経149.617度 / -1.817; 149.617のムッソウ島近海でアメリカ潜水艦ドラム(USS Drum, SS-228)の攻撃を受け、右舷2番・3番船倉の間付近に魚雷が命中し損傷[16][17]。山霧丸はラバウルに反転し、到着。同地での応急修理の後、12月2日に陸軍輸送船五星丸(興運汽船、1,931トン)他と共に船団を編制し[18]、ラバウルを出港してトラックへ向かった[16][19]。トラックには12月5日に到着[16]。修理を待つ間、山霧丸の船内では赤痢が蔓延した[19]

1944年(昭和19年)2月17日、山霧丸はトラック島空襲に遭遇。山霧丸は翌18日の空襲で機関室に2発被弾し、沈没した[19]。乗員12名が戦死した[19]。同年3月31日除籍及び解傭[20]

現在、山霧丸は秋島(フェファン島)の北、水深33メートルの地点で左舷を下に横転状態で沈んでおり、ダイビングスポットとなっている。2番船倉と3番船倉の間の右舷喫水線下に破孔がみられるが、そのほかは原型をとどめている。船倉内には戦艦用の35.6cm砲弾等がある。

監督官等

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監督官
  1. 坂本正 大佐:1941年9月20日[21] - 1943年5月25日
指揮官
  1. 坂本正 大佐:1943年5月25日 - 1943年6月10日
  2. 松川晃 中佐:1943年6月10日[22] -

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「日本商船隊の懐古No.255」13ページ
  2. ^ a b c 山霧丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年5月6日閲覧。
  3. ^ Kamogawa_Maru_class
  4. ^ 『新造船写真史』58-59ページ
  5. ^ 山月丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年5月6日閲覧。
  6. ^ 『社史 合併より十五年』454-455、457ページ
  7. ^ #徴用船舶名簿(7)p.9
  8. ^ #内令昭和16年9月(3)p.50
  9. ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』226、232、234-235ページ
  10. ^ 『蘭印攻略作戦』381ページ、『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』226ページ
  11. ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』232ページ
  12. ^ 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』234-236ページ
  13. ^ 『南東方面海軍作戦<2>』162-164ページ、『本土方面海軍作戦』115ページ
  14. ^ a b 『本土方面海軍作戦』115ページ
  15. ^ 『南東方面海軍作戦<2>』164ページ
  16. ^ a b c 山霧丸-近代世界艦船辞典-
  17. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  18. ^ IJN YAMAGIRI MARU:Tabular Record of Movement”. 7 May 2023閲覧。
  19. ^ a b c d 『戦時艦船喪失史』202ページ
  20. ^ #内令昭和19年3月(5)p.36
  21. ^ 海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  22. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1143号 昭和18年6月12日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091600 

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年6月1日現在 徴傭船舶名簿(海軍関係)/昭和18年6月1日現在 徴傭船舶名簿(海軍関係)(7)』。Ref.C08050008400。 
    • 『昭和16年9~10月 内令3巻/昭和16年9月(3)』。Ref.C12070153000。 
    • 『昭和19年1~7月 内令/昭和19年3月(5)』。Ref.C12070196900。 
  • 池川信次郎、三好誠(監修)『戦時艦船喪失史』元就出版社、2004年、ISBN 4-86106-014-1
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印攻略作戦』戦史叢書3、朝雲新聞社、1967年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』戦史叢書26、朝雲新聞社、1969年
  • 防衛庁防衛研修所戦史部『南東方面海軍作戦<2>ガ島撤退まで』戦史叢書83、朝雲新聞社、1975年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『本土方面海軍作戦』戦史叢書85、朝雲新聞社、1975年
  • 三菱重工業株式会社横浜造船所(編)『新造船写真史』三菱重工業横浜造船所、1981年
  • 山下新日本汽船株式会社社史編集委員会(編)『社史 合併より十五年』山下新日本汽船、1980年
  • 山田早苗「日本商船隊の懐古No.255」船の科学 第53巻第10号(No.624)、12-13ページ

外部リンク

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