山野辺義清
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 明暦2年5月3日(1656年6月25日) |
死没 | 宝永元年8月25日(1704年9月23日) |
改名 | 友之助→熊之介(幼名)→義方(初名)→義清 |
別名 | 右衛門、伊賀、若狭(通称) |
墓所 | 茨城県那珂市瓜連の常福寺 |
官位 | 従五位下、伊豆守、若狭守 |
主君 | 徳川光圀→綱條 |
藩 | 常陸水戸藩家老 |
氏族 | 楯岡氏→山野辺氏(ともに清和源氏最上氏庶流) |
父母 | 父:楯岡忠直、養父:山野辺義堅 |
兄弟 | 楯岡定直、義清 |
妻 | 正室:阿岩(山野辺義忠の娘) |
子 | 義逵 |
山野辺 義清(やまのべ よしきよ)は、江戸時代前期から中期の水戸藩家老。
生涯
[編集]明暦2年(1656年)、熊本藩家老楯岡忠直の子として肥後熊本に生まれる。はとこにあたる水戸藩家老山野辺義堅の養嗣子となる。
寛文9年(1669年)、14歳で家督を相続、禄1万石を与えられ、家老に列した。天和3年(1683年)、従五位下に叙される。伊豆守を称し、のち若狭守と改め、また伊豆守に戻した。貞享4年(1687年)、東山天皇即位に当たり京に使する。藤井紋太夫と抗争して屈することなく、主君徳川光圀より忠勤を賞された。
宝永元年(1704年)に49歳で死去し、長男の義逵が跡を継いだ。
参考資料
[編集]- 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年