山田秀三
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山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日[1]- 1992年7月28日[2])は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
経歴
[編集]東京に生まれる。一中、一高を卒業し、1921年、東京帝国大学法学部政治学科に入学[3]し、1924年に卒業[4]し、農商務省、商工省に勤務[5]。1937年企画院書記官[6]を経て、1941年に仙台鉱山監督局長[7]となり、在任中に東北各地の地名に興味を持つ[8]。1944年に軍需省化学局長となり[9]、 1945年に退官。1949年、北海道曹達株式会社社長就任。以後 同社会長、相談役を歴任。
1974年に北海道文化奨励賞、1979年に北海道文化賞、1991年に北海道新聞文化賞をそれぞれ受賞。藍綬褒章を受章。
人物
[編集]戦前はエリート官僚として東條英機首相とも交友があり、戦後はアイヌ語地名研究家として金田一京助、知里真志保、久保寺逸彦と交友関係を持ち、知里真志保に「アイヌ語の地名研究において、山田さんは私の弟子であり、師匠である。」と評された[10]。
妻の総子[1]は片山廣子の娘。宗瑛、井本しげといった筆名を用いて小説家として活動したが、結婚後に筆を折った。堀辰雄『聖家族』の絹子、『菜穂子』の菜穂子のモデルとなった人物とも言われる[11]。
著作
[編集]- 『物資統制に就いて』湘風会パンフレツト 1938年
- 『東北と北海道のアイヌ語地名考 山河を愛する人々に捧ぐ』楡書房 1957年
- 『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房 1965年
- 『北海道の旅と地名』北海道文化財保護協会 コタン双書 1970年
- 『北海道の川の名』電通北海道支社 1971年
- 『アイヌ語地名の研究 山田秀三著作集』草風館 1982年
- 『北海道の地名』北海道新聞社 1984年
- 『アイヌ語地名を歩く』北海道新聞社 1986年
- 『関東地名物語--谷(ヤ)谷戸(ヤト)谷津(ヤツ)谷地(ヤチ)の研究』草風館 1990年
- 『東北・アイヌ語地名の研究』草風館 1993年
- 『アイヌ語地名の輪郭』草風館 1995年
共編著
[編集]注釈・出典
[編集]- ^ a b 佐久間晃 編『日本官界名鑑 第4版』日本官界情報社、1940年8月10日、ヤ30頁。NDLJP:1446443/470。
- ^ 『朝日新聞』1992年07月28日夕刊、p.15.
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正12年至大正13年』東京帝国大学、1924年8月15日、(25)頁。NDLJP:940172/259。
- ^ 『東京帝国大学要覧 従大正13年至大正14年』東京帝国大学、1925年12月28日、(5)頁。NDLJP:1838186/142。
- ^ 『職員録 大正14年7月1日現在』内閣印刷局、1925年9月28日、382頁。NDLJP:986608/295。
- ^ 猪野三郎 編『大衆人事録 [全国篇] 第12版』帝国秘密探偵社・国勢協会、1937年11月17日、708頁。NDLJP:1686316/472。
- ^ 『官報』第4322号、昭和16年6月6日、p.174.NDLJP:2960820/8
- ^ 山田秀三「序」『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究』 1巻、草風館、1983年、1-4頁。 NCID BN00393907。
- ^ 『官報』第5356号、昭和19年11月20日、p.198.NDLJP:2961859/2
- ^ 知里真志保「序」1957年。(山田秀三『東北と北海道のアイヌ語地名考 山河を愛する人々に捧ぐ』楡書房、1957年、2-3頁。 NCID BN11371247。)
- ^ 川村湊『物語の娘』
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 20世紀日本人名事典『山田秀三』 - コトバンク
- 『山田秀三さんのこと』 - 草風館