山田真山
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山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。
生涯
[編集]前半生
[編集]沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。1928年、明治神宮聖徳記念絵画館に『琉球藩設置の図』を奉納した。
沖縄戦と平和祈念像
[編集]1940年、故郷の沖縄県に帰るが、1945年に沖縄戦に巻き込まれ、息子2人を失う。これを機に平和への願いを強め、1957年、72歳で平和祈念像の制作に取り掛かるが、未完成のまま1977年に死去した。像はすでに出来ていた原型を元に1978年に完成され、糸満市の沖縄平和祈念堂に安置された。
作品は他に『降魔之図』・『定山渓之図』(日本画)がある[1][2][3][4]。
出典
[編集]関連項目
[編集]- 金城安太郎 - 弟子
外部リンク
[編集]- 施設紹介 - 沖縄平和祈念堂
- メトロポリタン美術館ウェブサイトにおける作品の説明(Mako Komuro小室眞子による)[1]