山田健三 (陸軍軍人)
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山田 健三(やまだ けんぞう、1882年〈明治15年〉7月28日[1] - 1937年〈昭和12年〉8月14日)は、大日本帝国の陸軍軍人(陸軍中将)。位階および勲等、軍功は、従三位・勲二等・功四級。
生涯
[編集]新潟県中蒲原郡満日村満願寺(後に新津市、現在は新潟市秋葉区)に於いて、山田豊・美乃の長男として生まれる。新潟中学校(現在の新潟高校)から陸軍士官学校、陸軍大学校に進む。
1904年(明治37年)2月、新発田歩兵第16連隊付小隊長(陸軍少尉)となり、日露戦争に従軍。軍功を挙げ、尉官としては最高の功四級並びに特別感謝状が授けられた。陸軍大尉となると、1905年から陸軍参謀本部員として中華民国大使館付武官を務めた。1918年(大正7年)、陸軍大学校を上位の成績で卒業。1919年からはアメリカ大使館付武官、1921年にはメキシコ大使館付武官、1924年から朝鮮羅南第19師団参謀を務める。1927年(昭和2年)7月、陸軍大佐に進級し、大阪歩兵第8連隊の連隊長となる。満州事変が勃発するや、徳島歩兵旅団長として満州に従軍、陸軍少将となる。1934年に陸軍中将に進級すると、宇都宮第14師団司令部付となり、1937年年3月に予備役となる。病に伏せがちとなり、同年4月には特旨により従三位勲二等旭日章並びに同瑞宝章が下賜され、同年8月14日、薨去。享年56[2]。
人物
[編集]郷土である満願寺を愛し、神を敬い、同地の神明宮に石造の大鳥居を寄進した。山田は村の憧れの的であったため、多くの青年が軍人になることを志望した。