コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山田久米子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 久米子
生誕 弘化4年3月16日
1847年4月30日
武蔵国江戸神田
死没 明治44年(1911年12月19日
(64歳没)
東京府東京市芝区田町
(現 東京都港区
医学関連経歴
専門 助産師

山田 久米子(やまだ くめこ、弘化4年3月16日1847年4月30日)- 明治44年(1911年12月19日)は、日本助産師。職業としての助産師の草創期の人物[1]

経歴・人物

[編集]

江戸神田に生まれる[2][注 1]

明治9年(1876年)東京府病院に設置された産婆学院の第1回生として入学。卒業後、同病院附属貧民施療院の産室取締となる。明治12年(1879年)4月には芝区濱町に開業し、里仁会を設立して貧民の治療に尽くす[3]。 明治23年(1890年)5月には、東京産婆会の会長に就任し[4]、明治36年(1903年)11月芝産婆会を創立して会長に就任する[3]

宮家にも仕え[2]伏見宮博厚王伏見宮博恭王伏見宮博忠王の助産にあたった。また、伊藤博精佐佐木高志兒玉秀雄大木遠吉の助産も行った[3]

明治41年(1908年)頃には、新橋72番の2桁の電話番号を持って活躍していた[1]

明治44年(1911年12月19日芝区田町にて死去[3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『読売新聞』の訃報では、広島県出身とされている[3]

出典

[編集]
  1. ^ a b 山田久米子”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2020年2月1日閲覧。
  2. ^ a b 矢部信太郎山田久米子女史」『近代名士之面影 第1集』竹帛社、1914年、60頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/1232020年2月1日閲覧 
  3. ^ a b c d e 「光栄ある老婆逝く」『読売新聞』1911年12月11日、3面。
  4. ^ 「東京産婆会」『読売新聞』1890年6月1日、3面。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 山田久米子”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2020年2月1日閲覧。