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山本菅助 (二代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山本菅助
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文22年5月11日1553年6月21日[1]
死没 天正3年5月21日1575年6月29日[1]
改名 兵蔵(幼名)[2]?→幸房[2]?
別名 信供[3]、勘蔵[3]
主君 武田信玄勝頼
氏族 三河山本氏
父母 父:山本菅助[注釈 1]
兄弟 山本十左衛門尉室、山本勘蔵(信供)、山本助次郎下村安笑
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山本菅助(やまもと かんすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。足軽大将。二代山本菅助。

略歴

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初代山本菅助の子として誕生。「沼津山本家所蔵道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」『沼津山本家文書』によれば幼名は「兵蔵」、は「幸房」とされるが、確実な文書からは確認されない[1]。また、幼名の「兵蔵」も戦国期の慣習からして不自然である点が指摘される[1]。『甲斐国志』では「山本某」として立項し、名を「勘蔵信供」としている[1]。姉婿に十左衛門尉(幸俊)がいる[1]

甲陽軍鑑』に拠れば初代菅助は天文12年(1543年)に武田家に仕官し、文書上からも足軽大将としての活動が確認される[4]。初代菅助には男子がなく、天文20年(1551年)に饗庭氏から十左衛門尉を娘婿として迎えていたが[2]、天文22年(1553年)5月11日に二代菅助が出生する[2][5]

父の初代菅助は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死したといわれ、幼い「兵蔵」は十左衛門尉に後見され育つ[6]

永禄11年(1568年)に元服し「菅助」を名乗る[1]。同年6月7日には小者合計6人の軍役を課せられている[4]

「御証文之覚」によれば、二代菅助は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死する[1]。山本家は十左衛門尉が継ぎ[1]、その後紆余曲折を経て十左衛門尉の子孫が江戸時代も存続する。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『甲陽軍鑑』では「勘助」、道鬼。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 丸島(2015)、p.692
  2. ^ a b c d 『沼津山本家文書』
  3. ^ a b 『甲斐国志』
  4. ^ a b 真下家所蔵文書
  5. ^ 「沼津山本家所蔵御証文之覚」
  6. ^ 『沼津山本家文書』[1]

出典

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  • 山梨県立博物館監修・海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』戎光祥出版2013年
  • 丸島和洋「山本菅助(二代)」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年