山本發次郎
山本 發次郎(やまもとはつじろう、1887年(明治20年)5月[1] - 1951年(昭和26年))は、日本の実業家、美術コレクター。本記事に記載するのは2代目發次郎である。
来歴
[編集]岡山県上房郡北房町(現・真庭市)に生まれる[2]。戸田嘉平の三男で出生名は清[1][2]、生家は庄屋の家柄だった[3]。
1908年、東京高等商業学校を卒業[1]。卒業後は鐘淵紡績に入社した[2]。
先代山本發次郎(1871年-1920年)の養子となる[1][注釈 1]。これは先代發次郎の一人娘の元に婿養子として入る形だった[3]。
1920年に家督を相続[1]、2代目發次郎となる[2]。山発商店を発展させ、多額納税者となる[1][4]。山発商店は、肌着メーカーアングルや化粧品会社シュワルツコフヘンケルの前身である。
1922年頃にヨーロッパを訪問した[3]。大阪市在籍(南本町二丁目)だが、帰国後、兵庫県芦屋に竹腰健造設計の西洋館(白雲荘)を建てた[3][2]。
美術コレクターとしても知られたが、芦屋の邸宅は戦災にあい、多くのコレクションを失った。1951年に逝去。
美術収集
[編集]山本は佐伯祐三の油彩絵を始めとする近代美術コレクションで知られている。
東京での学生時代に同居した実兄の影響で美術品に興味を抱く[3]。書画から入り、1922年の洋行後は西洋画にも関心を広めた[3]。佐伯を最初に評価したのは山本とされ[5]、1932年から1933年頃に額縁商が持ち込んだ佐伯の絵に惹かれて、1935年ごろの展覧会では全品を買い取り、1937年に遺作展を開いた[3]。この遺作展に際しては『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』(座右宝刊行会)を刊行した[2]。ただし、コレクションのうち約100点は戦災で失った[3]。山本のコレクションについて、橋爪紳也は「東洋の書と佐伯祐三やモディリアーニなどの洋画を結びつけた個性尊重の芸術観」を魅力と述べている[2]。山本は、コレクションにはコレクターの個性が必要という主張を書き残した[2]。
また、単なるコレクターではなく収集品を広く公開することを望み、東京帝国大学美術史専攻の学生が研究旅行として訪問するほどだった[2]。美術館建設を志したが[2]、戦争の影響もあって生前は果せなかった。遺族から大阪市に佐伯祐三作品が寄贈されたことを契機に美術館建設が構想され[6]、2022年2月に大阪中之島美術館が開館した[7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『人事興信録』9版、人事興信所、1931年、ヤ176頁(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c d e f g h i j 橋爪紳也 (2018年3月22日). “絵を飾る人のキモチ 第15回“蒐集もまた創作なり”伝説の大コレクター魂”. 住ムフムラボ. 2022年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 河﨑晃一「前衛芸術を育んだ芦屋の気風」『月刊神戸っ子』2016年1月月。 河﨑は甲南大学教授で、發次郎の孫に当たる。
- ^ 商品年表 - シュワルツコフヘンケル
- ^ 佐伯祐三コレクション - 大阪中之島美術館(2022年2月27日閲覧)
- ^ 【次回の日曜美術館】「なにわ商人の見た夢 ~大阪中之島美術館 開館までの30年~」 Eテレ 2月27日放送 - 美術展ナビ(2022年2月20日)2022年2月27日閲覧。
- ^ “40年越し実現 大阪中之島美術館オープン、待望の瞬間に300人”. 朝日新聞. (2022年2月2日) 2022年2月27日閲覧。
文献
[編集]- 里見勝蔵・山尾薫明(共編)『山本發次郎遺稿集』私家版、1953年
- 『山本發次郎コレクション -遺稿と蒐集品にみる全容-』淡交社、2006年
外部リンク
[編集]- 山本發次郎蒐集による佐伯祐三作品一括(42点) - 大阪市(大阪市指定文化財(平成18年度))
- 大阪中之島美術館 蒐集もまた創作なり - 日曜美術館(日本放送協会、2022年2月27日放送)