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山本忠秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本忠秀
やまもと ただひで
生年月日 1863年1月6日
没年月日 (1936-10-09) 1936年10月9日(73歳没)
出身校 明治法律学校中退
(現明治大学)
子女 養子・山本忠興

在任期間 1897年9月29日 - 1904年9月28日

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山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日[1])– 1936年(昭和11年)10月9日[1][2])は、明治から昭和初期の政治家実業家貴族院多額納税者議員板垣伯銅像記念碑建設同志会理事[3]

概要

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土佐国香美郡岩村郷金地村[1][4]高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた[1][5]。漢学を修め[1]明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した[1][注釈 1]

帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した[1]。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任[1]。1893年[4](明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し[1]、同年8月の半数改選でも再選された[1]立憲政友会高知支部に所属した[6]

1897年(明治30年)高知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から[7]1904年(明治37年)9月28日まで1期在任した[2]

実業界では、土佐電燈社長、土佐農工銀行頭取、高知銀行取締役、土佐貯蓄銀行取締役、城東商業学校理事長、土佐高等女学校理事などを務めた[1][2]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1900年に推薦交友となる。『高知県人名事典 新版』889頁。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『高知県人名事典 新版』889頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』227頁。
  3. ^ 『財団法人板垣会の歴史』公文豪著(所収『自由のともしび』高知市立自由民権記念館会報誌)
  4. ^ a b c 『土佐人 山本忠興と近代オリンピック』10頁。
  5. ^ 『土佐人 山本忠興と近代オリンピック』9頁。
  6. ^ 『近代土佐人』80頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。
  8. ^ 『人事興信録 第7版』や111頁。

参考文献

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  • 片岡仁泉編『近代土佐人』土陽週報社、1914年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
  • 『土佐人山本忠興と近代オリンピック : 開館30周年記念企画展 : 令和3年度』高知県文化財団高知県立歴史民俗資料館、2021年。

関連項目

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外部リンク

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