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山本善之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本善之介から転送)
やまもと ぜんのすけ

山本 善之助
生誕 1931年4月1日
東京市本郷区(現・東京都文京区
死没 (2001-10-11) 2001年10月11日(70歳没)
東京都中野区
国籍 日本の旗 日本
別名 山本善之介
Zennosuke Yamamoto
山善
善ちゃん (ぜんちゃん)
職業 写真家
著名な実績 ビールつくり三代
舞妓素描
三国連太郎の生活
受賞 1960年 毎日産業デザイン賞
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山本 善之助(やまもと ぜんのすけ、1931年昭和6年)4月1日 - 2001年平成13年)10月11日)は、日本写真家。一部文献では山本 善之介とも。

略歴

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1931年昭和6年)4月1日、当時の東京市本郷区(現・東京都文京区の一部)で、上野アメヤ横丁の布団屋(現在のたいまる本店の場所)の七人兄姉弟の五男として生まれる。父:廣三郎、母:冨美子。

1945年(昭和20年)3月、聖橋工業高校(神田駿河台:聖橋高等工学校)を第2学年で戦時動員令にて終了中退。

1946年(昭和21年)4月、東京都立芝商業学校(旧制中学、現東京都立芝商業高等学校)を入学、1950年(昭和25年)3月卒業。

1950年(昭和25年)4月、東京都立芝商業高等学校(新制高校)第4学年編入、1952年(昭和27年)3月卒業(1年間休学)。

1945年(昭和20年)4月、戦時動員令により東京計器製作所(現在の東京計器株式会社長野計器株式会社の前身)へ入社、終戦により8月退社。

1945年(昭和20年)9月より、外務省総理府通商産業省(局長附事務官、1954年退官)を経て写真家へ転身した。[1][2]

1953年(昭和28年)・1954年(昭和29年)にアサヒカメラ賞・優秀作家賞を受賞し、翌1955年(昭和30年)にはアサヒカメラ賞の最優秀作家賞を受賞した。また1960年(昭和35年)には毎日産業デザイン賞も受賞している。[1][2][3]

1960年以降は日本デザインセンターの広告写真を中心としながら、映画・舞台の俳優・女優を撮り続けた。[3]

関係

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外務省勤務時代は外交官牛場信彦の下で従事、写真家へ転身後も交流があった。[1][3]

俳優を中心とした人物写真を多く撮り、三國連太郎とも親交が深かった。[4][3]

関連人物

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作風

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ポートレート、スナップを得意とし、風景にしても、その中に人物を生かすようにした写真を撮った。女性写真に繊細な感覚を見せ、自然光を巧みに使いこなす。三社祭などのダイナミックな情景写真にも手腕を持ち、雪景色などの風景写真では印画の調子を美しくする感覚の写真家。[1][3]

被写体である相手が芸術家なら芸術家なりに、しとやかならしとやかなりに相手の懐、範囲に向かっていく構えで撮影していく。持ち前の押しの強さで周囲に溶け込む。[5]

主な作品

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  • ビールつくり三代」 〜 朝日麦酒(アサヒビール) 新聞広告(1960年、電通広告景気年表
    • 戦後初のドキュメント・タッチの広告写真。新聞全国紙の一面を使った広告、ビールつくりを親子3代で続ける祖父、父、子の3人が並んだ印象的な写真で世間の注目を浴びる作品となった。その年の毎日産業デザイン賞(現 毎日デザイン賞)を受賞。広告写真の名作と云われている。[6]
    • 作品収録図書:
      • 日本写真家協会・編 『日本現代写真史1945〜1970』 (1977年、平凡社)
      • 日本写真家協会・編 『日本現代写真史1945〜95』 (2000年、平凡社)
      • 小沢健志・編 『日本写真全集 第11巻 コマーシャルフォト』 (1986年、小学館)
      • 宣伝会議 他・著『宣伝会議 : marketing & creativity』 (1989年、宣伝会議)
      • 明治大正昭和新聞研究会・編 『新聞集成昭和編年史 昭和35年版 1 (自1月-至2月)』 (2012年、新聞資料出版) ほか
  • 「舞妓素描」 〜 アサヒカメラ賞・最優秀作家賞 (1955年)
    • 作品収録図書:
      • 『アサヒカメラ』 (1955年2月号、朝日新聞社)
      • アサヒカメラ・編『アサヒカメラ年鑑 1956年版』 (1956年、朝日新聞社)
  • 「野外音楽会」 〜 日比谷野外音楽堂におけるオーケストラ演奏会 (1956年)
  • 「上野・アメ屋横丁」他 〜 東京のまちシリーズ (1956年)
  • ウィーン少年合唱団」 (1956年、1959年)
  • 三国連太郎の生活」 (1957年)
    • 神楽坂にあった三國連太郎の自宅へ4か月間の泊り込みを続け、映画『異母兄弟』の撮影期間中を含め6か月間に渡る密着の撮影を行った。役柄で坊主頭となった三國により、弟子共々に山本もバリカンで頭を丸められた。[4]
    • レイアウト担当者:亀倉雄策
    • 作品収録図書:『アサヒカメラ』 (1957年9月号 pp.49-55、朝日新聞社)
  • 「火山灰地・第1部から」 (1961年)
  • 三島由紀夫・著 『目――ある芸術断想』 の本文中の写真 (1965年)
  • その他の写真掲載一覧(一部)(国立国会図書館所蔵品写真作品集

展覧会

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  • 「三国連太郎との120日」(1957年、東京・名古屋・大阪・神戸・姫路・盛岡にて開催)

参考文献

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  • 『アサヒカメラ』(1956年1月号・1957年9月号・1961年5月号・1961年10月号、朝日新聞社)
  • 小沢健志 編『日本写真全集 第11巻 コマーシャルフォト』小学館、1986年。 
  • 日本写真家協会 編『日本現代写真史 : 1945-1995』平凡社、2000年。 
  • 日本著作権協議会 編『著作権台帳 : 文化人名録』(26版)日本著作権協議会、2001年。 

脚注

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  1. ^ a b c d 『アサヒカメラ』1956年1月号213頁
  2. ^ a b 『著作権台帳 : 文化人名録』(26版)1461頁
  3. ^ a b c d e 『アサヒカメラ』1961年5月号67頁
  4. ^ a b 『アサヒカメラ』1957年9月号50頁52頁
  5. ^ 『アサヒカメラ』1956年2月号117頁
  6. ^ 『日本写真全集 第11巻 コマーシャルフォト』45頁