山形空港まつりスカイダイビング墜落事故
山形空港まつりスカイダイビング墜落事故(やまがたくうこうまつりスカイダイビングついらくじこ)は、1974年8月11日に山形県東根市にある山形空港でのイベント「山形空港まつり」で起きたスカイダイビングの死亡事故[1][2][3][4]。
以後、事故を起こし死亡したスカイダイバーをA、降下中にAと接触したスカイダイバーをBと表記する。また、ここに表記する団体名、施設名、肩書などはすべて当時のものとする。
事故背景
[編集]航空祭
[編集]事故の起きた「山形空港まつり」は、山形空港の開港を記念して行われる行事で、この時は開港10周年記念[1]であった。この日の10時から開催され[3]、見物客の人数は、東根市の観光課による推定で約4万人[3]とされている。スカイダイビングの他に民間ヘリコプターの曲芸飛行などのアトラクションが行われた[3]。山形空港まつりで、スカイダイビングを実施するのは、この時で3回目[1]であった。
スカイダイビングによるデモンストレーションの概要
[編集]スカイダイビングの3団体、20人が参加した[1]。事故のスカイダイビングのデモンストレーションはこの日の2回目で、セスナ3機に3人ずつ分乗、9人が同時にダイブし、パラシュートを開いた後に発煙筒を焚きながら降下する予定だった[1]。
事前対策
[編集]イベント前日の8月10日、スカイダイビングを実施する3団体、運輸省の山形空港出張所、飛行機の運用を行う東邦航空、それぞれの代表者による安全対策の協議が行われた[1]。ここでセスナ機の編隊飛行の間隔を通常より広く30mとるなどの対策をとることが決定した[1]。
参加したダイバーは空港祭の3日前に降下の練習を始めた[2]。ただし9名が同時に降下をしたのは、この日が初めてのことだった[2]。
Aの経験
[編集]大学入学後からスカイダイビングを始めて、この時スカイダイビング歴5年、120回以上の降下を経験していた[2]。
事故状況
[編集]天候
[編集]山形気象台での観測した事故のあった日の天気は、晴れ。午前9時の気温は25.0℃、湿度75%、北北西の風、風速0.8m/s[5]。
事故の概要
[編集]Aは1番機に乗り込み、女優の應蘭芳に続いて[3]、午前11時50分ごろ、高度1,050mから降下を開始し[1][注釈 1]、高度750mでメインパラシュートを開いた[3]。Bは2番機から降下を開始[3]した。
高度300m付近でAの足がBのパラシュートと接触[3]し、Bのメインパラシュートがしぼんだ。BはAに対して「カットウェイ(パラシュートの切り離し)しますか」と聞いたところ、Aから「ちょっと待ってくれ」と返答があった[3]が、Bは危険を察知し、自身のメインパラシュートを切り離し[3]、予備のパラシュートを開いて無事に着陸した[3]。一方Aも自身のメインパラシュートを切り離したが、予備のパラシュートが開かず、空港滑走路東側約20メートルの草むらに墜落した[3]。地面に激突した際、身体が10mほどバウンドする勢いであった[3]。
空港祭の見物客は、からみあって落ちてくる2名のダイバーも「ショー」の一部だと思っていたが、地面にたたきつけられた瞬間、大騒ぎとなった[2]。
事故原因
[編集]Aは足に付けた発煙筒の着火に夢中になり、気が付かない間にBのパラシュートの孔に足が入ってしまった[4]。Bのパラシュートはしぼみ、Bは急降下をはじめた[4]。このためBはメインパラシュートを切り離した後、予備のパラシュートを開いた[4]。Aは自分のメインパラシュートとBのメインパラシュートが絡まって危険と判断し[4]、メインパラシュートを切り離した[4]。しかし、Aの右腕にBの切り離したメインパラシュートが絡まって右腕を脱臼[4]した。このためAは予備のパラシュートのリップコード[注釈 2]を引くことができず、墜落したと考えられる[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- “観衆2万、目前の惨事”. 朝日新聞(朝刊) (東京): pp. 19. (1974年8月12日)
- “ダイビング・ショーで墜落死”. 読売新聞(朝刊) (東京): pp. 19. (1974年8月12日)
- “スカイダイバーが墜死”. 毎日新聞(朝刊) (東京): pp. 19. (1974年8月12日)
- 笹島穣 (1976-09). “スカイダイビング”. 航空情報 臨時増刊 スカイスポーツ (酣燈社) 364: 78-92. ISSN 04506669.