山川重英
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代初期 |
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生誕 | 天明3年(1783年) |
死没 | 明治2年(1869年) |
改名 | 千代吉(幼名)、重英 |
別名 | 兵衛(通称) |
墓所 | 福島県会津若松市大窪山墓地 |
主君 | 松平容敬 → 松平容保 |
藩 | 陸奥会津藩 |
氏族 | 山川氏 |
父母 | 父:山川治太夫重行、母:笹原伝蔵忠恒女 |
子 | 尚江 |
山川 重英(やまかわ しげひで、天明3年(1783年) - 明治2年(1869年))は、江戸時代幕末期の陸奥会津藩家老。山川浩、山川健次郎の祖父に当たる。通称は兵衛。
略歴
[編集]目付から普請奉行・町奉行・御蔵入奉行等を経て、文政3年(1820年)に奉行職(勘定奉行)に列し、困窮した藩財政を再建した。さらに天保3年(1832年)の若年寄を経て、天保10年(1839年)に家老へと進んだ。
第8代藩主・松平容敬の兵衛に対する信頼は絶大で、重英の1代で山川家は家老の家筋にまで躍進し、知行もそれまでの300石から1,000石となった。
美濃高須藩から容保が会津へ養子に来た際は、守役として養育にあたった。
安政6年(1859年)に退隠し、息子の尚江に家督を譲るが、翌年に病死したため嫡孫・大蔵(浩)を後見した。戊辰戦争では高齢ながらも隠居勤を命じられ、家族とともに篭城した。
明治2年(1869年)、容保の嫡子容大の出生により、その補導役を命じられるが、間もなく河沼郡水谷地村(福島県河沼郡湯川村)で死去した。享年86。
人物
[編集]発想が柔軟で教養豊かな人物で、鰻・鯰・蜆の養殖を奨励し、種痘による天然痘の予防法を推進したり、洋式銃の優秀性を説いて導入を説教的に主張する等、進取の気性に富んでいた。
逸話
[編集]若年の頃、囲碁を好んで寝食を忘れるほどだったといい、18歳で父・重行の番代となるが、囲碁に耽溺して職務を怠ることを恐れ、碁石を売却したほどだという。
当時ではまだ珍しかった種痘の有効性を認めて、容保の正室の敏姫に実施しようとしたが、保守的な侍医らに反対されて果たせず、その後、敏姫は痘瘡に罹患し、19歳で死去した。重英は一生このことを悔いていたという。
登場作品
[編集]参考文献
[編集]- 『会津藩教育考』
- 『幕末維新人名事典』新人物往来社
- 『男爵山川先生遺稿』故山川男爵記念会
- 『若松市史 下巻』名著出版