山崎元家
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛文7年4月25日(1667年6月16日)[1] |
別名 | 十左衛門[1] |
主君 | 徳川義直、光友 |
藩 | 尾張藩 旗奉行 |
氏族 | 五井松平家支流山崎氏[2] |
父母 | 父:山崎元直[3] |
兄弟 | 元家、正盛[3] |
子 | 元忠、松井玄吉の妻[4] |
山崎 元家(やまざき もといえ)は、江戸時代前期の尾張藩士。
略歴
[編集]山崎氏は五井松平家初代の松平忠景の子で、岡崎城に近い造岡城に住んだ作岡算次を祖とする。その子孫は後に今川氏に仕えて駿河国駿東郡山崎に移り住み、父の代で山崎氏を称した[5][3]。父の元直は今川氏の没落後は三河国幡豆郡に住んでいたが、徳川家康が関東に移った後、その四男の松平忠吉に150石で仕えた。元家は父の家督を継ぎ、忠吉の没後も尾張国に残って尾張藩士となり、伊奈吉勝の組に属する。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では天王寺の戦いで先駆けを務め、酒巻伊右衛門の助勢を得て敵一人の首を挙げている。戦後は尾張藩を離れたが、寛永7年(1630年)に帰参して300石を領し、御供番、足軽頭、鉄砲頭を歴任する。正保3年(1646年)旗奉行となり、200石を加増された[3]。承応3年(1654年)老年に及んで家督を嫡男の元忠に譲り、寛文7年(1667年)に没[4]。