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山名常豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山名 常豊(やまな つねとよ、文正元年(1466年)-文明18年(1486年9月)は室町時代後期の武将。守護大名山名政豊の長男。

文明6年(1474年4月応仁の乱で西軍方であった父・政豊が東軍と和解して東軍方であった将軍足利義尚に拝謁した際に、同行した8歳の子息が幼少時代の常豊であったとみられる。それから12年後に文明18年9月には「山名御曹司」が20歳で没したとする記録(『政覚大僧正記』文明18年10月13日条)があるが、政豊の他の子息は健在であり、系譜上「早世」と記録されている常豊の死去の記事であるとみられる。

常豊の死の前年である文明17年(1485年)には父・政豊が赤松氏の本国である播磨国に遠征して大敗し、一族・重臣の多くを失っており、続く常豊の死は山名氏の家中に動揺をもたらし、政豊の後継者を巡る内紛の一因となった。

参考文献

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  • 片岡秀樹「文明・明応期の但馬の争乱について-山名政豊父子と垣屋氏-」(初出:『地方史研究』58巻6号(2008年)/所収:市川裕士 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻 山陰山名氏』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-293-3) 2018年、126-131ページ。