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山吉正盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


山吉 正盛(やまよし まさもり、生没年不詳[1])は、室町時代後期から戦国時代にかけての武士

略歴

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山吉久盛の子として誕生。

永正8年(1511年)、本成寺に2通の安堵状を発給している。

父・久盛は守護代長尾邦景の忠実な被官であったが、文安3年(1444年)以降は史料に現れず、邦景父子没落時の山吉氏の動向は不明とされている。しかし、応永の乱 (越後国)で邦景父子が没落し新たな新守護代家が成立するなかでも、山吉氏の蒲原郡代、三条城代としての地位は揺るぎなかったとされ、守護代・長尾能景時代の延徳4年(1492年)に山吉四郎右兵衛尉正綱が史料上登場してくる。この正綱や正盛とほぼ同時代に登場する山吉能盛と正盛との関係は不明とされる[2]

脚注

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  1. ^ 『山吉家家譜』では生年永享12年(1440年)、没年明応2年(1493年)とされる。『越後三条山吉系図』では天文3年(1534年)121歳で死去と記載されている。正盛が登場する確実な史料とは年代的に齟齬がある。正室も『山吉家家譜』は上杉頼方の女とするが、『越後三条山吉系図』では桃井義直の女とするなど異同が大きい。山吉家の系譜に関しては、戦国時代以前は信がおけないすると学説(『三条市史』136頁)も存在する。
  2. ^ 『三条市史 上巻』137頁、「山吉能盛」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)

出典

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  • 『三条市史 上巻』
  • 『三条市史 資料編第2巻』