山口組と谷崎組の抗争事件
この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。 (2009年2月) |
山口組と谷崎組の抗争事件(やまぐちぐみとたにざきぐみのこうそうじけん)とは、1954年(昭和29年)9月3日、兵庫県神戸市で、三代目山口組若衆・山本健一、山口組若衆・梶原清晴、山口組組若衆・北山悟が、谷崎組若頭・野沢修に重傷を負わせた暴力団抗争事件。
経緯
[編集]1954年9月3日、三代目山口組若衆・尾崎彰春と山口組若衆・小田芳一が兵庫県神戸市東川崎の麻雀店に入った。尾崎が麻雀店で谷崎組若頭・野沢修と口論になった。尾崎と小田は麻雀店の外で野沢と決闘することにした。麻雀客の多くが野沢の身内であった。尾崎と小田は野沢らに暴行を受け重傷を負った。通報を受けた警官が現場に駆けつけた。野沢ら谷崎組組員は逃走した。尾崎は警察に逮捕された。小田は警察の逮捕を逃れ山口組事務所へ向かった。
小田は同日に兵庫県神戸市生田区の山口組事務所に戻った。事務所には山本健一と梶原清晴と北山悟がいた。山本は拳銃を持参し、梶原はドスを持ち、北山とともに谷崎組事務所に殴り込んだ。谷崎組事務所は無人であった。山本、梶原、北山の3名は山口組事務所に引き上げた。山口組事務所には野沢修の自宅を知る山口組組員がいた。山本ら3名はその組員に野沢宅まで案内してもらった。山本と北山は野沢宅の正面から入り、梶原は野沢宅の裏側から侵入することになった。しかし野沢宅の玄関が開かなかったため、山本は野沢宅の裏に回った。梶原は山本より先に野沢宅の裏から侵入し、ドスを持って野沢に襲い掛かった。その後山本が野沢の頭と腹部に向けて1発ずつ拳銃で、銃撃。さらに梶原はドスで野沢を十数回斬った。野沢は重傷だったが、一命を取り留めた。
その後、谷崎組は瓦解。懲役3年の実刑判決を受けた山本健一は加古川刑務所に服役した。これにより、田岡一雄は、本多会・本多仁介会長とともに神戸市のヤクザ社会を2分する勢力となった。
参考文献
[編集]- 飯干晃一 『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1989年、ISBN 4-0414-6421-8
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高 『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5