コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

斎藤弥平太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山口立から転送)

斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9月28日 - 没年不詳(1953年(昭和28年)9月28日、戦時死亡宣告))は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

来歴・人物

[編集]

香川県三野郡上高野村(現 三豊市豊中町)出身。農業・斎藤浜太郎の次男として生れる。

旧制香川県立三豊中学校(第1回)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。

参謀本部付勤務、第18師団参謀、参謀本部員などを経て、1923年(大正12年)5月から12月まで欧州に出張した。1925年(大正14年)8月、朝鮮軍参謀となり、参謀本部員(動員班長)、参謀本部付(陸大専攻学生)、陸大教官などを歴任し、1930年(昭和5年)8月、歩兵大佐に昇進し陸軍省整備局統制課長に就任。

1932年(昭和7年)8月、関東軍参謀となり、歩兵第6連隊長に就任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長となる。1937年(昭和12年)3月、第1師団司令部付となり、第4独立守備隊司令官に就任し、1938年(昭和13年)3月、陸軍中将に進んだ。同年11月、第101師団長に親補され日中戦争に出征した。1939年(昭和14年)11月、留守第1師団司令部付となり、参謀本部付、陸軍兵器本部長を経て、1942年(昭和17年)7月、第25軍司令官となった。第25軍のスマトラ移駐問題南方軍総参謀長・黒田重徳との間に確執があり[1]1943年(昭和18年)4月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された。

1943年8月、朝鮮総督府指導者養成所長に就任し、1944年(昭和19年)7月、満州拓殖公社総裁となり終戦を迎えた。1946年(昭和21年)5月14日、紅軍に抑留された後、消息不明となった。1953年9月28日に戦時死亡宣告がなされた。

栄典

[編集]
位階
外国勲章佩用允許

家族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ フォーラム 1998, pp. 676–677.
  2. ^ 『官報』第3400号「叙任及辞令」1938年5月7日。
  3. ^ 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。
  4. ^ 故「清野達氏」の足跡を辿って郷土をさぐる(第30号)上富良野町郷土をさぐる会、2013年4月1日
  5. ^ 先輩を訪ねて大分県立竹田高等学校関東同窓会会報『臥牛』8号、1993.5.25
  6. ^ 第66回特別勉強会 講師 山口建史氏 h26/10/4(土)日本を知る会

参考文献

[編集]
  • 中井虎男『回想三豊中学』三秀社、1969年。 NCID BA31459961 
  • 外山操 [編]、上法快男 [監修]『陸海軍将官人事総覧』芙蓉書房出版〈近代日本軍事組織・人事資料総覧〉、1981年。ISBN 4829500026 
  • 四国新聞社『香川県人物・人名事典』四国新聞社、1985年。 NCID BN0344390X 
  • 四国新聞社「斎藤弥平太 寺内寿一元帥と対立」『男たちの青春』18号、丸山学芸図書〈讃岐人物風景 / 四国新聞社編〉、1988年、231-233頁。 NCID BN09564827 
  • 山口立 [編]『追憶 - 斉藤弥平太』山口立(私家版)、1994年。 NCID BA85563606 
  • フォーラム [編集]『日本の英領マラヤ・シンガポール占領(1941〜45年) : インタビュー記録』 33巻、龍溪書舎〈南方軍政関係史料〉、1998年。ISBN 4844794809NCID BA39008285https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/95764372018年4月19日閲覧 
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738NCID BA50149848 
  • 秦郁彦 [編]『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 NCID BA73066386 
先代
二宮治重
満州拓殖公社総裁
第3代:1944年 - 1945年
次代
日本の降伏