山口嘉蔵
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山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日[1][2])- 1943年(昭和18年)8月4日[3])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。
経歴
[編集]伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋[4][5](鳥取県[1]久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町[6]を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる[1][2]。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった[4]。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた[4]。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した[1][2][4]。
1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し[1][2]、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた[2][3][5][6][7]。
1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に鳥取県第3区から立憲政友会公認で出馬し、西谷金蔵、田中信一らの応援を受けて当選し[5][7][8]、その後政友本党に所属し衆議院議員に1期在任した[3][6]。
また、故郷の振興のため、倉吉中学校(現鳥取県立倉吉東高等学校)設置に5千円、打吹公園基金に2千円、郡立図書館基金に3百円などの多額の寄付を行った[9]。その他、故郷の有望な子弟の教育のため奨学金を提供した[4]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大阪現代人名辞書』文明社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 鳥取仏教青年会編『因伯立志人物』横山書店、1915年。
- 﨏利八郎『陰陽八郡郡勢一斑』陰陽八郡時報社1917年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『鳥取県史 近代 第二巻 政治篇』鳥取県、1969年。
- 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。