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山口利夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1954年

山口 利夫(やまぐち としお、本名:山口 利雄(読み同じ)[1]1914年7月28日 - 1986年4月1日)は、静岡県三島市出身の柔道家(六段)、プロレスラー。実は力道山よりも先に日本国内初となるプロレス興行を実施している。[2]

来歴

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戦前は早稲田大学柔道部から南満州鉄道柔道部で活躍、当時としては並外れた巨漢で「満鉄の虎」と謳われた強豪だった。全日本選士権では1936年第3位、1937年準優勝という成績を残す(いずれも一般壮年前期の部)。

1939年、大相撲の出羽海部屋に入門。夏場所、幕下付出で初土俵を踏むも2連敗して休場。翌場所では序二段尻に落ち、四股名を「山口大五郎」と改名した直後、応召で全休。翌1940年初場所で廃業した[1]

1950年木村政彦遠藤幸吉らとプロ柔道興業「国際柔道協会」に旗揚げから参加。このプロ柔道では柔道史上最強と謳われた木村に次ぐナンバー2の実力者だった。

のちに木村とともにハワイでプロレスに転向。一時帰国後、2人でブラジルに遠征する。ここで1951年マラカナンの屈辱として有名な木村政彦vsエリオ・グレイシー戦のセコンドにもついている。

1953年7月18日、「北九州水害義損・東西重量級大会」と銘打ち大阪府立体育館でプロレス興行を実施。これが日本国内で初のプロレスのビッグイベントとなっ全6試合で、た。目玉カードは元力士の清美川梅之と山口利夫の対決。

1954年4月、大阪を拠点に全日本プロレス協会(のちにジャイアント馬場が設立する全日本プロレスとは無関係)を設立する。木村政彦vs力道山の昭和の巌流島の戦いの後、1955年1月26日大阪府立体育館力道山に挑戦。脇腹を痛めていてリングアウト負けを喫する。その影響で人気は落ち目となり、団体の資金繰りが悪化。1956年11月には日本ヘビー級王者力道山への挑戦権決定戦という設定のもと、東富士相手に負け涙を飲んだ。その後は全日本プロレスを離れ故郷の静岡県三島市に「山口道場」を構えたが上手くいかず1957年に団体は消滅した。翌1958年5月31日、大阪の扇町プールで、山口の引退試合が行われる。すでに日本プロレスに移籍していた吉村道明、長沢日一、ユセフ・トルコや、かつてプロ柔道でともに活動した木村らが参戦、最後を飾った。

1986年4月1日、故郷・三島市内の自宅で心不全のため死去[3]

日本における最初のプロレスのテレビ中継は1954年2月19日に行われた「力道山・木村政彦VSシャープ兄弟」戦ではなく、同年2月6日NHK大阪の試験放送で中継された全日本プロレス協会の興行である。

柔道時代からプロ柔道時代、そしてプロレスラー時代の活動についてはノンフィクション木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳しい。

ミスター高橋は後年のインタビューで「自分は1963年に山口利夫一派のプロレスラーとして東南アジアに遠征したこともある」旨の証言をしている[4]が、当時の山口の具体的な活動についての詳細は不明。

出典

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  1. ^ a b 『VANVAN相撲界』(ベースボール・マガジン社・1986年7月号)
  2. ^ 力道山未亡人 | 書籍”. 小学館. 2024年6月6日閲覧。
  3. ^ 『発掘!日本プロレス60年史 団体篇』(ベースボール・マガジン社、2011年1月) P.35
  4. ^ 『別冊ゴング』(日本スポーツ出版社・1978年9月号) 山口雄介・「ピラニアインタビュー(14)」

関連項目

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