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山内通義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山内 通義
やまのうち みちよし
生誕 1850年
日本の旗
死没 1912年5月21日
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 ? - 1896年
最終階級 陸軍工兵大佐
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山内 通義(やまのうち みちよし、1850年嘉永2年12月[1])- 1912年明治45年)5月21日[2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵大佐

経歴

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山口県士族[2]。陸軍少尉に任官の後、1872年7月(明治5年6月)、陸軍中尉に昇進[3]西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)5月4日に陸軍少佐に昇進[4]するとともに東京鎮台工兵第1大隊長に仰せ付けられる[5]1879年(明治12年)ごろ、高崎営所に在勤[2]。以後、東京鎮台幕僚参謀、兼工兵局御用掛、名古屋鎮台参謀などを歴任し[2]1884年(明治17年)10月7日、陸軍教導団次長に就任し[6]、同月25日、工兵中佐に昇進[7]1888年(明治21年)12月27日、陸軍工兵大佐に進み、翌日、陸地測量部長に就任[2][8][9]1889年(明治22年)6月3日、初代陸軍砲工学校長に転じた[8][10]1893年(明治26年)4月21日に休職し[11]1894年(明治27年)11月24日、留守第2師団参謀長として復帰した[8]1901年(明治34年)5月19日、予備役に編入され[12]1908年(明治41年)4月1日に退役した[2]

栄典

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人物

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  • 書画、唐宋の詩歌を愛好していた[19]
  • 東京市牛込区市谷田町2丁目24番地の家を所有していたが、「赤字になりかけたら、へんな見栄なんか棄てて、まず家蔵を売ってしまえ」と遺言していた[20]

親族

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脚注

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  1. ^ 陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿. 明治35年7月1日調査、170頁。
  2. ^ a b c d e f 『明治過去帳』新訂初版、1255-1256頁。
  3. ^ 本省布告 3 58 明治5年6月(2)(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09070006000 
  4. ^ 5月4日 陸軍大尉 松浦正睡他(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09081323200 
  5. ^ 5月6日 工兵第1大隊長更に被仰付 少佐山内通義(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09082530000 
  6. ^ 『官報』第397号、明治17年10月23日。
  7. ^ 『官報』第411号、明治17年11月10日。
  8. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』25頁。
  9. ^ 『官報』第1652号、明治21年12月29日。
  10. ^ 『官報』第1779号、明治22年6月6日。
  11. ^ 『官報』第2941号、明治26年4月22日。
  12. ^ 『官報』第5364号、明治34年5月23日。
  13. ^ 第24号3月10、12日、2月28日分、3月2日分(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08010415000 
  14. ^ 『官報』第424号、明治17年11月25日。
  15. ^ 『官報』第726号、明治18年12月1日。
  16. ^ 『官報』第1933号、明治22年12月6日。
  17. ^ 『官報』第2406号、明治24年7月8日。
  18. ^ 『官報』第5406号、明治34年7月11日。
  19. ^ 『遠くにありて』57、273頁。
  20. ^ 『遠くにありて』241-242、290頁。
  21. ^ 『遠くにありて』290頁。

参考文献

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  • 山内義雄『遠くにありて』〈講談社文芸文庫〉、講談社、1995年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。


軍職
先代
小菅智淵
陸地測量部
第2代:1888年12月28日 - 1889年6月3日
次代
藤井包總
先代
創設
陸軍砲工学校
初代:1889年6月2日 - 1893年4月21日
次代
黒瀬義門