山内通義
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山内 通義 やまのうち みちよし | |
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生誕 |
1850年 |
死没 | 1912年5月21日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | ? - 1896年 |
最終階級 | 陸軍工兵大佐 |
山内 通義(やまのうち みちよし、1850年(嘉永2年12月[1])- 1912年(明治45年)5月21日[2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵大佐。
経歴
[編集]山口県士族[2]。陸軍少尉に任官の後、1872年7月(明治5年6月)、陸軍中尉に昇進[3]。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)5月4日に陸軍少佐に昇進[4]するとともに東京鎮台工兵第1大隊長に仰せ付けられる[5]。1879年(明治12年)ごろ、高崎営所に在勤[2]。以後、東京鎮台幕僚参謀、兼工兵局御用掛、名古屋鎮台参謀などを歴任し[2]、1884年(明治17年)10月7日、陸軍教導団次長に就任し[6]、同月25日、工兵中佐に昇進[7]。1888年(明治21年)12月27日、陸軍工兵大佐に進み、翌日、陸地測量部長に就任[2][8][9]。1889年(明治22年)6月3日、初代陸軍砲工学校長に転じた[8][10]。1893年(明治26年)4月21日に休職し[11]、1894年(明治27年)11月24日、留守第2師団参謀長として復帰した[8]。1901年(明治34年)5月19日、予備役に編入され[12]、1908年(明治41年)4月1日に退役した[2]。
栄典
[編集]- 1874年(明治7年)3月10日 - 正七位[13]
- 1884年(明治17年)11月14日 - 正六位[14]
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[15]
- 1888年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
- 1891年(明治24年)7月6日 - 従五位[17]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正五位[18]
人物
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿. 明治35年7月1日調査、170頁。
- ^ a b c d e f 『明治過去帳』新訂初版、1255-1256頁。
- ^ 「本省布告 3 58 明治5年6月(2)(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09070006000
- ^ 「5月4日 陸軍大尉 松浦正睡他(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09081323200
- ^ 「5月6日 工兵第1大隊長更に被仰付 少佐山内通義(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C09082530000
- ^ 『官報』第397号、明治17年10月23日。
- ^ 『官報』第411号、明治17年11月10日。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』25頁。
- ^ 『官報』第1652号、明治21年12月29日。
- ^ 『官報』第1779号、明治22年6月6日。
- ^ 『官報』第2941号、明治26年4月22日。
- ^ 『官報』第5364号、明治34年5月23日。
- ^ 「第24号3月10、12日、2月28日分、3月2日分(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08010415000
- ^ 『官報』第424号、明治17年11月25日。
- ^ 『官報』第726号、明治18年12月1日。
- ^ 『官報』第1933号、明治22年12月6日。
- ^ 『官報』第2406号、明治24年7月8日。
- ^ 『官報』第5406号、明治34年7月11日。
- ^ 『遠くにありて』57、273頁。
- ^ 『遠くにありて』241-242、290頁。
- ^ 『遠くにありて』290頁。
参考文献
[編集]- 山内義雄『遠くにありて』〈講談社文芸文庫〉、講談社、1995年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
軍職 | ||
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先代 小菅智淵 |
陸地測量部長 第2代:1888年12月28日 - 1889年6月3日 |
次代 藤井包總 |
先代 創設 |
陸軍砲工学校長 初代:1889年6月2日 - 1893年4月21日 |
次代 黒瀬義門 |