山内豊中
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山内 豊中(やまうち とよなか、1885年5月30日 - 1952年10月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
履歴
[編集]1885年(明治18年)、最後の土佐藩主・山内豊範の四男として高知城下鷹匠町(現在の高知市)で生まれる。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征。さらに「秋津洲」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科で学び、1912年(大正元年)12月、東宮武官となる。1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。
1917年12月、駆逐艦「浜風」駆逐艦長に就任し、第3艦隊参謀、軍令部参謀(第2班第4課)を経て、1920年(大正9年)12月、海軍中佐に昇進。1921年(大正10年)8月、皇族付武官(高松宮宣仁親王付)に就任し、この間、親王とともに「浅間」「長門」の各乗組となる。1924年(大正13年)12月、海軍大佐に進級。1925年(大正14年)2月、軍令部出仕となり、第3駆逐隊司令、「神通」艦長、横須賀鎮守府付、イギリス私費留学などを経て、1927年(昭和2年)12月、侍従武官に着任した。
1930年(昭和5年)12月、海軍少将に昇進。1932年(昭和7年)6月、馬公要港部司令官に就任し、軍令部出仕を経て、1934年(昭和9年)3月、待命となり予備役に編入。1937年(昭和12年)3月、高松宮家別当となった。1952年(昭和27年)10月、神奈川県で没。
栄典
[編集]- 位階
- 1905年(明治38年)10月4日 - 正八位[1]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従七位[2]
- 1909年(明治42年)12月20日 - 正七位[3]
- 1915年(大正4年)1月30日 - 従六位[4]
- 1921年(大正10年)1月20日 - 正六位[5]
- 1924年(大正13年)12月27日 - 従五位[6]
- 1930年(昭和5年)2月15日 - 正五位[7]
- 1934年(昭和9年)4月17日 - 従四位[8]
- 勲章
- 1915年(大正4年)11月7日 - 勲五等双光旭日章・大正三四年従軍記章[9]
- 1934年(昭和9年)2月7日 - 勲二等瑞宝章[10]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第6682号「叙任及辞令」1905年10月5日。
- ^ 『官報』第7329号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。
- ^ 『官報』第748号「叙任及辞令」1915年2月1日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
- ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。
- ^ 『官報』第949号「叙任及辞令」1930年3月1日。
- ^ 『官報』第2186号「叙任及辞令」1934年4月18日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考資料
[編集]- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。