コンテンツにスキップ

山内文次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山内勝明から転送)
 
山内 文次郎
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 嘉永元年(1848年[注 1]
死没 大正元年(1912年12月27日
別名 諱:勝明
墓所 青山霊園
幕府 江戸幕府 砲兵差図役勤方、通訳方
主君 徳川慶喜家達
静岡藩 兵学校三等教授方
父母 父:山内萬右衛門[1]
孝子(藤井行道の娘、藤井行徳の妹)[1]
文、勝巳、勝二(川井三平養子)、勝三、勝貞[1]
テンプレートを表示

山内 文次郎(やまうち ぶんじろう)は、幕末から明治時代の旗本、官僚。維新後は勝明と改めた。位階および勲等従三位勲二等

略歴

[編集]

横浜仏語伝習所フランス語を習得。慶応3年(1867年パリ万国博覧会参加のために幕府から派遣された徳川昭武の通訳として渡仏。田辺太一とともにモンブラン伯爵との交渉に関わっている[2]。維新後は沼津兵学校で教授を務める[3]明治6年(1873年外務省の官僚となり[4]ロシア臨時代理公使イタリア臨時代理公使を歴任。後に宮内省に移って大膳亮[4]式部官宮中顧問官在任中の大正元年(1912年)に死去した[4]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 人事興信録 初版』(1903年)では弘化4年3月25日1847年5月9日)生まれ。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 人事興信録 初版』(1903年)
  2. ^ 田辺 1966, p. 260.
  3. ^ 樋口 2005, p. 203.
  4. ^ a b c 赤松 1977, p. 203.

参考文献

[編集]
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「山内文次郎」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 赤松則良『赤松則良半生談』平凡社東洋文庫〉、1977年。ISBN 9784582803174 
  • 田辺太一『幕末外交談』 2巻、平凡社〈東洋文庫〉、1966年。ISBN 9784582800722 
  • 樋口雄彦「旧幕府陸軍の解体と静岡藩沼津兵学校の成立」『国立歴史民俗博物館研究報告』第121巻、国立歴史民俗博物館、2005年。 
公職
先代
一条実輝
日本の旗 皇后宮大夫心得
1912年
次代
馬場三郎
大夫事務取扱