山内一俊
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶安2年(1649年) |
死没 | 延宝3年10月15日(1675年12月1日) |
別名 | 通称:次郎大夫 |
戒名 | 受徳院釈崇山 |
墓所 | 浅草の報恩寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
氏族 | 土佐山内氏庶流 指扇(新橋)山内家 |
父母 | 父:山内一唯、母:栄松院 |
兄弟 | 一輝、女子、一俊 |
妻 | 鳥居忠春娘・浄心院 |
子 |
豊房、 休(山内豊昌養女、久留島通政室)、 豊隆、豊英、女子 |
山内 一俊(やまうち かつとし)は、江戸時代前期の旗本。武蔵国指扇山内家(新橋山内家)3代当主。
略歴
[編集]寛文4年(1664年)に兄の一輝が26歳で病没したが、嗣子が無かったため実弟の一俊が家督を継ぎ、寄合に列した。しかし、一俊も延宝3年(1675年)に27歳で没した。
子の豊房が若年で相続したが、本家の土佐藩4代藩主山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄元年(1688年)に豊房が養子となった。この際、指扇領は幕府に返上しており、旗本山内家は廃絶となった。元禄13年(1700年)、豊昌の死去により跡を継いで土佐藩5代藩主となった。また、豊房の弟の豊隆ものちに土佐藩6代藩主となっている。