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山中満幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山中満幸
時代 戦国時代
生誕 永正17年(1520年
死没 天文15年9月20日1546年10月14日
別名 久幸
戒名 忠誠院殿秋峯億勇大禅定門または天海[1]
官位 三河(受領名)
主君 尼子経久晴久
氏族 山中氏
父母 父:山中勝重または山中貞幸、母:三沢土佐守
兄弟 満幸信直
立原綱重娘・なみ
幸高幸盛飯田定正室、佐伯辰重
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山中 満幸(やまなか みつゆき)は、戦国時代武将尼子氏の家臣。

生涯

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永正17年(1520年)、出雲国戦国大名尼子氏の家臣・山中勝重または山中貞幸の子として誕生。

尼子経久晴久に仕えた。天文15年(1546年)9月20日に27歳で死去したとされるが、鴻池家系図によれば永正6年(1509年)に生まれ、父の跡を継いで白鹿城主となり4千貫を継ぎ、山中兵部大夫と称した。智勇に優れた武将であったが、天文13年(1544年)8月7日、父・貞幸に先んじて36歳で死去したと記している。法名は忠誠院殿秋峯億勇大禅定門、または天海であること以外は詳細不明。

なお、『佐々木文書』には山中氏始祖・山中幸久の存在は無いため、宇多源氏ではなく橘姓近江山中氏が尼子氏下向時に一緒に下向したと思われる。満幸の存在も架空だと思われる。

脚注

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  1. ^ 『鴻池家系図』

出典

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  • 宮本又次『鴻池善右衛門』 吉川弘文館、1957年
  • 妹尾豊三郎『出雲富田城史』 山中鹿介幸盛公顕彰会、1978年
  • 横山正克『尼子氏一門のルーツ』(立花書院)、1985年
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社)、1989年
  • 『鴻池系図』
先代
山中貞幸
山中氏歴代当主
? - 1546年
次代
山中幸高