屋嘉節
「屋嘉節」(やかぶし)は、琉球民謡の曲のひとつ。1945年の沖縄戦後に、金武村(現在の金武町)屋嘉に設けられた旧日本軍将兵の捕虜収容所で創作された[1][2]。作曲は山内盛彬、作詞は金城守賢とされることが多いが、渡名喜庸仁なども自分が作詞者だと称している[3][4]。また、複数の異なる歌詞が「屋嘉節」として伝えられている[5]。金武町に建立されている「日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑」の裏面に刻まれた「屋嘉節」の歌碑[6]にある歌詞には、作詞者は明記されていない[7]。さらに、同趣の曲として「PW無情」、「敗戦数え歌」があり、特に前者については歌詞が「屋嘉節」と繋げられて、ひとつの曲として扱われることもある[4]。
成立の背景
[編集]1945年の沖縄戦後、焼き払われた金武村屋嘉集落の跡、後の金武町立嘉芸小学校の校地周辺を、米軍がブルドーザーで整地し、投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉捕虜収容所」が設けられた[1][5]。沖縄出身者の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使い、パラシュートの紐を弦としてカンカラ三線を作り、演奏するようになり、やがて「屋嘉節」が生まれて広まったという[2]。
このため、「屋嘉節」はカンカラ三線のレパートリーとして演奏されることもある[8]。
鎮魂歌として
[編集]「屋嘉節」の歌詞には、戦争のむなしさが歌われており、再び戦争が起きないことを願うという内容が含まれているため、平和教育において取り上げられたり[1][9]、「沖縄慰霊の日」などの行事に演奏されることがある[10]。
知花昌一は、2005年にヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区を訪問した際に、東エルサレムで「鎮魂歌」として「屋嘉節」を演奏したと報じられた[11]。
関連項目
[編集]出典・脚注
[編集]- ^ a b c “「屋嘉節」の思い継ぐ 喜納、瀬良垣さん歌う”. 琉球新報. (2012年6月19日) 2013年2月1日閲覧。
- ^ a b 藤山清郷 (1998年12月7日). “沖縄・金武(七つの村の記憶 20世紀からの伝言第3部:4)”. 朝日新聞・朝刊: p. 1 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 「屋嘉節(やかぶし)」『最新版 沖縄コンパクト事典』琉球新報社、2003年 。2013年2月1日閲覧。
- ^ a b “レファレンス協同データベース:「屋嘉節」について 4番以降の歌詞が載っている資料を探している。収容所に居た頃カンカラ三線を伴奏に7番くらいまで歌った記憶がある。歌詞に「防衛隊」が入っていた。”. 国立国会図書館 (2011年3月29日). 2013年2月1日閲覧。
- ^ a b 松川敦志 (2009年6月22日). “(歌い継ぐ 沖縄慰霊の日:下)屋嘉節 詞が派生、涙と希望託し”. 朝日新聞・西部朝刊: p. 26 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “沖縄県の琉歌碑”. 沖縄県立総合教育センター. 2013年2月2日閲覧。
- ^ “歌碑のある琉歌32”. 沖縄県立総合教育センター. 2013年2月2日閲覧。
- ^ “カンカラ三線、沖縄の心 敗戦下、人々を元気づけた”. 朝日新聞・大阪夕刊: p. 15. (2000年8月25日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “平和教育の目的と主題(案)” (PDF). 広島平和教育研究所. 2013年2月2日閲覧。
- ^ 森本大貴 (2005年9月17日). “「沖縄慰霊の日」証言や三線披露 23日、大阪沖縄会館”. 朝日新聞・大阪朝刊・大阪市内: p. 33 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 磯貝誠 (2005年9月17日). “(ぴーぷる)沖縄・読谷村議の知花昌一さん パレスチナに琉球の鎮魂歌”. 朝日新聞・夕刊: p. 2 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧