尾張国風土記
『尾張国風土記』(おわりのくにふどき)は、奈良時代に編纂された尾張国(現在の愛知県西部)の風土記である。全編は現存しておらず、逸文の形で僅かに伝わるのみである。
概要
[編集]8世紀初頭に編纂された尾張国の風土記である。現存する他の風土記と同様に国内の地名や伝承が書かれていたとみられるが、大部分が江戸期までに失われたため『釈日本紀』『塵袋』『万葉集註釈』など後世の文献に引用された部分が逸文として伝わるのみである[1]。
なお『尾張風土記』が愛知県立図書館などに所蔵されているが、これは近世初期に編纂された偽書『日本総国風土記』の一部で、古代に編纂されたものとは無関係である[2]。
内容
[編集]現在、『尾張国風土記』の一部分であると推定されるのは主に以下のものが知られている[1]。
熱田社
[編集]熱田社者、昔日本武命、巡歴東国還時、娶尾張連等遠祖宮酢姫命。宿於其家、夜頭向厠、以随身剣、掛於桑木、遣之入殿。乃驚、更往取之、剣有光如神。不把得之。即謂宮酢姫曰。此剣神気。宜奉斎之、為吾形影因以立社。[3] — 『釈日本紀』巻七
『釈日本紀』に引用された熱田神宮の縁起に関する一説で、文中で『尾張国風土記』の一部分であると明記されている。日本武命が東国を巡って帰る際に尾張連の遠祖である宮簀媛の家に泊り、夜に草薙剣が神々しく光り輝いたため、これを神体として熱田社を建てたとの内容が記述されている[3]。『日本書紀』や『尾張国熱田太神宮縁起』と類似した内容である[4]。ただし日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの形影とするよう言い残したとの記述は独自のものであり、熱田神宮の起源を研究する上では重要な史料となっている。
三宅寺
[編集]『万葉集註釈』に引用された福興寺に関する一説で、文中で『尾張国風土記』の一部分であると明記されている。尾張国愛知郡日部郷伊福村にあったという福興寺(三宅寺)が724年に三宅連麻佐なる人物によって建立されたという伝承が記述されている[5]。
川嶋社
[編集]葉栗郡川嶋社 在河沼郷川嶋村 奈良宮御宇聖武天皇時、凡海部忍人申「此神化為白鹿、時時出現。」 有詔「奉齋、為天社。」[6] — 『万葉集註釈』巻第一
『万葉集註釈』に引用された川島神社に関する一説で、文中で『尾張国風土記』の一部分であると明記されている。尾張国葉栗郡河沼郷川嶋村にあったという川嶋社は、聖武天皇の治世に神が白鹿に化けて時々出現するので天皇の詔で建てられたとしている[6]。
葉栗尼寺
[編集]人麿ト云ハ。歌仙ノ外ニハナキ歟。尾州葉栗郡ニ光明寺ト云フ寺アリ。ハグリノ尼寺ト名。是ヲバ飛鳥浄御原御宇 丑丁 小乙中葉栗臣人麿始建立見タリ。是ハ歌仙非ズ。同名也。サレバ柿人丸ト。栗ノ人丸トアリケルニコソ。カキヲバウタヨミノ人丸。栗ヲハ寺ツクリノ人丸ナルベシ。 — 『塵袋』巻五
吾縵郷
[編集]卷向朱城宮御宇天皇垂仁世、品津別皇子、生七歲而不語。傍問群臣、無能言之。乃後、皇后夢、有神告曰「吾、多具國神、名曰天甕津姬阿麻乃彌加都比女。吾未得祝。若為吾宛祝人、皇子譽津別能言、亦是壽考。」 帝、卜人覓神者、日置部等祖建岡君卜食。即遣覓神時、建岡君到美濃國花鹿山、攀賢樹枝、造縵誓曰「吾縵落處、必有此神。」縵去落於此間。乃識有神。因豎社、由社名里。後人訛言吾縵阿豆良里也。 — 『釈日本紀』巻十
藤木田
[編集]尾張国春部郡、国造川瀬連ト云ケル者、田ヲ作タリケルニ、一夜ノ間、藤オヒタリケリ。アヤシミオソレテ、切棄ルコトモナカリケルニ、其藤大ニナリニケリ。其故ニ此田ヲバハギタト云ヘルトカヤ。 — 『塵袋』巻三
張田邑
[編集]尾張國山田郡山口郷ノ内。有張田邑。尾州記云。昔此間多榛俗謂之波里。云云。 — 『塵袋』巻二
宇夫須那社
[編集]尾州葉栗郡若栗郷宇夫須那ノ社アリ。廬入姫誕塵生產屋地也。故ニ此號アリト云々。 — 『塵添壒嚢鈔』巻八
大呉里
[編集]尾張國ニ大吳里云フ所アリ。舊記ニハ大塊トカケリ。根元ヲタヅヌレバ、卷向日代ノ宮ノ御宇天皇、國ニヲハシマシケル時、西方大モノヽワラフコヱノシケレバ、アヤシミヲドロキ給ヒテ石津田連ト云フ人ヲツカハシテミセラルニ、カホハ牛ゴトクナルモノヽ、アツマリテワラヒケルコヱノ、ヲビタヾシカリケルヲ、此石津田スコシモヲソル心ナクシテ、劒ヲ拔テ一々切ケリ。自是其所大斬里ト云ケルヲ後謬テオホクレトハ云ナセルトカヤ。 — 『塵袋』巻五
登登川
[編集]尾張国号
[編集]星宮
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 福輿寺とも。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 栗田寛『古風土記逸文』大岡山書店、1927年 。